smtwtfs
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728    
<< February 2017 >>
profile
ogiwarasite.jpg

academySMALL.jpg
recommend
トランペット ウォームアップ本 (MyISBN - デザインエッグ社)
トランペット ウォームアップ本 (MyISBN - デザインエッグ社) (JUGEMレビュー »)
荻原 明
【販売部数1000部達成!】「ラッパの吹き方」ブログ著者、荻原明 初の教則本!ウォームアップと奏法の基礎を身につけられる一冊です!
recommend
まるごとトランペットの本
まるごとトランペットの本 (JUGEMレビュー »)
荻原 明
「ラッパの吹き方」から生まれた「まるごとトランペットの本」発売中です!
プレスト音楽教室
プレスト音楽教室 当ブログ著者、荻原明が講師をしている音楽教室です。生徒さん随時受付中です!
ラッパの吹き方bot/Twitter
ラッパの吹き方bot 「ラッパの吹き方」ブログから抜粋した1400以上のことばと記事の紹介をしています。練習のお供に、ぜひご活用下さい!
ラッパの吹き方 Facebook
ラッパの吹き方フェイスブック ラッパの吹き方Facebookでは新着記事の紹介のほか、"note"でのハイノート本原稿公開の更新情報、これまでの記事を発掘して紹介をしております。
sponsored links
links
mobile
qrcode
 スマホ版表示に変更

※スマートフォンで閲覧している時のみ作動します
        
サイト内検索はこちら↓
new entries
categories




archives
others
無料ブログ作成サービス JUGEM


スポンサーサイト








一定期間更新がないため広告を表示しています

at , スポンサードリンク, -

-, -, pookmark


指導と指摘 2








みなさんこんにちは!

先週に引き続き、「指導」と「指摘」についてです。



《惹きつけられる》
テレビやインターネット、雑誌などを見ていたり、街中を歩いていたりして「惹きつけられた」ことって一度はあると思います。「惹く」というのは「人の心を奪う」「夢中になる」「魅了される」といった意味です。

「誰がなんと言おうと私はこれが好き!」

と思っているのは、きっと惹かれています。

なぜそれに魅力を感じているのか、理由は様々だと思います。誰かのファンだからその関連していることも好きになったとか、流行に乗って好きになったこともあると思います。しかし、理由を尋ねられても具体的に説明のつかないものってありませんか?自分でもなんでそんなに好きなのか(気になるのか)わからないけど、とにかく気になってしかたがない。みたいなこと。

音楽でも同じですね。惹きつけられる音楽ってあると思います。
あなたの「惹きつけられる音楽」ってどんなものですか?


《正確性とインパクト》
前回の記事で話題にしたYouTubeでの評価基準は、「正確性」と「インパクト」だと思います。
ざっと見ていても、高評価なものはほとんどそれだと感じます。
では、それぞれがどういう存在か挙げてみましょう。

[正確性]
前回の記事の内容です。「ピッチ」が安定している、「テンポが乱れない」「ミスしない」など。至極明瞭な判断基準。
「指摘できること」がなければ、叩けないということかもしれません。

[インパクト]
一番多いのは「ハイノート」です。高音域をぴゅーぴゅー吹いている動画やフィンガリングが正確で非常に細かなパッセージを正確に演奏している動画には良いコメントが多く、高評価であるように感じます。

また、評価の高いものは、非常にレコーディング技術を駆使してリバーブとかを上手にかけているように感じます。ところであのリバーブとか動画の音響だけを処理するのってどうやったらいいのでしょうか。僕はそういったことにまったく知識がなく、ネットで調べてもはっきりした答えが出てこなくています。
本当は、評価の高い方のようなリバーブをかけた動画を掲載して、生音の録音とどのくらい評価が分かれるか実験したいのです。どなたか教えてくださいませんでしょうか。。。

それはともかく、内容がどうあれ、一般的な視点で「芸」と感じられる行為、これらはすべて「インパクト」が強いと言えます。要するに「すごーい!(自分にはできなーい!)」というものです。

最近有名になった「にゃんごすたー」はX JAPANの「紅」のドラムパートを、ゆるキャラの格好でバシバシ演奏したそのギャップからくる「インパクト」で有名になりました


《芸術に求められるもの》
正確性もインパクトも、もちろん表現という世界ではとても大切な要素です。それらが完璧にできている動画が必然的に盛り上がり、賞賛のコメントが連発するのも非常によくわかります。僕も決して嫌いではありません。見ていて楽しいですからね。

では次に、オーケストラや吹奏楽、室内楽、ソロといった形態でいわゆる「クラシック音楽」「芸術」という世界は何を目的として存在しているのでしょうか。

芸術の一番大切なことは「心を伝える」ということだと僕は思っています。
作品の素晴らしさや、作曲者と演奏者の思いなどを音に込めて聴く人に伝えることです。

嬉しくて楽しくて仕方がない!という気持ちを音楽に込めた作曲者がいたとして、それを楽譜に残していたものを、演奏者という存在が、音に再度変換して聴衆に届ける。しかも奏者はその作品をどう演奏したら嬉しさや楽しさを伝えられるかと考え、その奏者なりの意思や表現方法を使います。だから同じ作品でも演奏する人によって違うので、何度聴いても楽しい。

心を感じ、心を伝えていく行為、それが芸術です。


《小さな子どもの演奏》
幼い頃、幼稚園や小学校などで「おゆうぎかい」「発表会」のようなステージを経験したことがあると思います。僕も鍵盤ハーモニカやリコーダーで合奏をしたことがありますし、演劇もやったことがあります。
正直言って、幼稚園児くらいの年齢だと、どんなに一生懸命練習したところで、楽曲の完成度はたかがしれています。プロオーケストラのようには絶対いきません。

しかし、そんな園児の演奏を聴いた大人は、みんな心から嬉しそうにしていて、涙を流す人もいます。中には自分の子どもを見て感動している方もいると思いますが、でも全然他人であっても演奏している子どもたちを見ていると自然と表情はほころびて、暖かな気持ちになりますよね。

あれはきっと、子どもたちが一生懸命に演奏をしているからです。
そういった一生懸命な「心」が客席に強く伝わってくるのでしょう。

ですから、これはある意味「芸術」と呼べるのかもしれません。


《どこで変わってしまったのか》
この子どもたちの演奏に対し、「楽譜通りじゃないじゃないか!」「テンポが乱れている!」「ピッチが悪い!」こんなんじゃダメだ!なんて評価する人いますか?
多分、ひとりもいませんよね。

しかし、その後たった数年したらなぜかみんな「テンポが悪い」「ピッチが悪い」なんて叩き始めるんです。

おかしな話だと思いませんか?


原因はいくつかあると思いますが、一番考えられるのは「吹奏楽コンクール」に対する捉え方を間違った大人がいるからだと思うのです。

ここで前回の記事の話に戻りますが、結局音楽を完成させるために必要なことは「テンポ」と「ピッチ」だと思っている人がいる、ということです。
もちろんこれは大切なことですが、なぜ大切なのかというと「楽譜に書いてあることを正しく再生させるため」ですよね。

ですから、この時点ではまだ「演奏者の心」についてはまったく触れていません。
芸術として非常に大切な存在である「心」などまったく触れられないままに、機械的な形成ばかりを繰り返し追い求めてしまっています。


《心を伝える音楽を》
そこで最初に話題、「惹きつけられる」なのですが、本当の意味で惹きつけられる音楽は、機械のように正確に刻み続けるテンポでもなく、チューナーの針が±0をキープし続けるものでもありません。
素晴らしい作品に込められた「心」を感じ、それをまた音として、自分の意思を含めた演奏で聴く人に伝えようとするそんな姿に「惹かれる心」は自然と生まれてくるものだと思うのです。

これは表面的なインパクトなんかよりもずっと崇高で大切で、決して失ってはいけないものだと思うのです。

コンクールに勝つとか負けるとか、そんな戦いみたいなものとして音楽を捉えてほしくありません。

心を伝える音楽をし続けて欲しいと思っています。

そのような音楽の愛し方をする人ばかりになれば、YouTubeで誰かの演奏した動画に辛辣なコメントを残す人もいなくなると思うのです。その人がどれだけ技術的に乏しかったとしても、強い気持ちで音楽を奏でている姿勢や、心から楽しんでいる姿について賞賛のコメントを書くことだってできるはずです。

偽善者ぶってるつもりはありませんが、指導者としても、演奏者としてもそういった姿勢であるべきですし、音楽を否定ではなく肯定的に捉えていこうと僕も思っています。

ということで今週はここまでです。
また来週!



当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。

at 08:37, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

-, -, pookmark


指導と指摘 1








みなさんこんにちは!

さて、前回の記事では、僕が審査員をさせていただいたときの話から、評価する側の視点でいろいろ書かせて頂きました。
今回は、またちょっと違う形の「聴く側の視点」でひとつ気になっていることがあるので記事にします。



《YouTube》
便利ですよね、ユーチューブ。
僕は、音楽を聴くというよりは、もう手に入らないのでは、と思われるすごい古い記録なんかをよく検索して見ていますが、本当にいろいろなジャンルの動画があってついつい流し観してしまいます。
以前Wi-Fi接続が切れていることに気づかず、延々とiPhoneで観ていたら、あっという間に契約のデータ量を超えてしまって痛い目に遭ったことがありますので、みなさまお気をつけください。

さてこのYouTubeですが、それぞれの動画にコメントを付けられる場所がありますよね。

そのコメントを見ていると、残念ですが攻撃的、批判的、否定的なものが多いときがあり、しかも、(僕の見た限りでは)管楽器の演奏動画にはそういったコメントが特に多いように感じます。
ひどい場合には、否定的なことを書いた人に対して、さらに煽りを入れ「そんなに言うならお前がやってみろよ」と、動画とは関係なさそうな人がどんどん乱入し、炎上している場合もあります。

ああ、悲しい。


コメント欄でどんな論争が繰り広げられているのかと言うと、もちろん動画によっていろいろではありますが、一番見かけるのが

「音程が悪い」「テンポが乱れている」「リズム感が悪い」

といった王道的な内容。

これ、何かと似ていると思いませんか?


《指導??》
僕は中高生のとき吹奏楽部に入っていました。
そのときに教わっていた方、何人かいましたが、言われたことの一番多かったのが「音程」です。

ただ、チューナー片手にロングトーンをさせられて「高い/低い」と言い続ける方でしたので、音程ではなくピッチのことだったのだと思います(音程は2つの音の隔たりのことで、ピッチは周波数です)。音程は音楽的、ピッチは数学的。

あとは指揮者用の譜面台に料理で使う菜箸をカンカン打ち付けて「テンポ!」と怒鳴り続けていたことが非常に記憶に残っています。
指揮棒を振る、というシーンは本当に少なかったです。

一日の合奏練習の大半はずっとこれでした。どんな曲を演奏しようが同じ。

でもこれ、僕だけが経験したきたことではないと思います。少なからずこれに近い「指導(?)」を受けた経験、ある方、多くありませんか?


《数値化できること》
なぜこういった「指導(?)」になってしまうのでしょうか。
それは、数値で証明できることだからだと僕は考えています。

例えばピッチであればチューナーで測れば高いか低いかは誰でもすぐにわかります。それを「高い/低い」と声に出せば良いだけ。
例えばテンポであればメトロノームのクリック音を聞けば誰でもすぐにわかります。それを「ずれた!」と声に出せば良いだけ。

言ってしまえば音楽の知識がまるでなくてもできてしまうことであり、かつ数値で証明された事実ですから、その人に責任が来ないのです。

一般の吹奏楽やオーケストラ団体で指揮者不在の練習日に誰かが代表で指揮台に上がり、その人が、様々な「合っていない」ことを口うるさく、厳しく指摘し続けるので、奏者たちのモチベーションが下がってしまう、なんて話題が昔からよくあがりますが、まさにこれです。

これは指導ではなく、「指摘」と呼ぶほうがふさわしいでしょう。


《指摘》
指摘は、確かにありがたいです。言われないと気づけないことって人間ですからたくさんあります。

しかしその指摘された内容が、自分でも充分わかっていて、しかしどうすれば改善されるかわからない場合、自分に対しても言ってきた本人に対してもフラストレーションが高まります。

音楽は、時間をかけて積み上げていくこと、バランスや様々な方向からの理解によって解決することが多いので特にそうですよね。頭の中にある理想的な演奏を自分でやろうとしても上手くいかない。そんなときに「なぜできない!」と強く言われてしまったら、「わかってるよ!でもできないんだよ!」という気持ちになるのは当然です。

本当の指導というのは、この「どうしたらいいのかわからない」ことを把握し、的確なアドバイスによって解決することです。
良くないところを指摘するだけとはまったく違います。


《音楽って本来どういったものですか?》
話をYouTubeのコメントの件に戻すと、結局、数値で証明できるピッチやテンポを盾にして、さも指導力を持っているかのうような振る舞いをし続けている人がいかに多いか、ということなのでしょう。そうした人に教わった(関わった)経験を持っている人は「管楽器とはこうやって学ぶものなのだ」「ピッチ!テンポ!ピッチ!テンポ!」と少なからずなってしまって当然です。

そして年齢も性別も名前も顔もわからないネット上でのコメントで、指導できない指導者のマネをした人たち、指導したがり屋さんが蔓延してしまっているのだろうと、そう思います。

動画を掲載した人が厳しい言葉がほしくてアップロードしているなら話しは別ですが、ほとんどの場合叩かれたくて掲載したわけではないと思うのです。
なのにピッチだテンポだと頼んでもいないのに指導者のように書き込みをしているのを見ていると、なんだか悲しいですよね。

音楽って本来そういうものですか?
楽しむためのものではないのですか?

ということで長くなりそうなのでこの先は次週です。
また来週!

当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。

at 07:24, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

-, -, pookmark


審査の視点








みなさんこんにちは!

先月、僕の師匠でもある津堅直弘先生(東京音大教授、、洗足学園客員教授、元N響首席奏者)の音大生のお弟子さんたちによる発表会が開催されました。



毎年この時期に開催しているのは、ちょうどこの後に実技試験や4年生は卒業試験が控えているからで、この舞台を踏んだ経験を活かし、試験という本番に挑もうという先生の配慮なのです。
僕ももれなく学生のときにはこの発表会に参加しまして、とても高い評価をいただいた年もあれば撃沈した年もありました。いろいろありました。ほんといろいろ。

そんな僕がここ数年はありがたいことに審査員として参加させていただいております。

なんで発表会なのに審査員?とお思いでしょうが、実は名前こそ発表会ですが、1位から最下位まで順位付けをされるそれはそれは緊張感の高いコンクールなのです。

10名近い審査員(しかも名だたる日本のオーケストラのトランペット奏者などが中心!)が100点満点で採点し、公平になるために各点数の上下1名ずつをカットした平均点で順位を決めます。

ですので、先程僕が学生のときにとても高い評価とか撃沈とかいうのは主観的にではなくて完全に順位としてのことでした。

今回の発表会出演者は東京音大と洗足学園から60名程度で、すべての演奏が終わったあと、全員の前で1位から発表される、という最後まで緊張感たっぷりの一日です。
この発表会ももう来年30回目!すごい歴史があります。


《審査する側》
それにしても審査というのは本当に難しい。数学のテストのように答えが決まっているわけではない形のない音楽は「感覚」「主観」による採点であり、基準などありません。フィギアスケートのように「そこのHigh Bb決めたら5点加点」とかあればまだいいのですが。

音楽のコンクールがたくさんあります。吹奏楽関係だけでも、吹奏楽コンクールやアンサンブルコンテスト、ソロコンテストなど音楽に点数を付けて順位づけをし、賞を決めたり、代表に選出されるなど、いわば決め勝ち抜き戦のような催しが一年に何度もあります。最近はポップスのものとかいろいろ増えましたね。

コンクールは同じ演奏を聴いているのにも関わらず、審査員によって評価が大きく違う、なんてことも本当に多いです。それだけ人間の主観とは個々で違うということなんですね。
音楽はとくにそれが強いように感じます。単純に上手い上手くないみたいなものではなく、もっと違う観点や目には見えない深いところのあらゆるものが点数が影響しているように感じます。

そこで今回はあまり語られることが少ない審査する側の視点について書いてみたいと思います。

ただ、最初にお断りしておきますが、これは吹奏楽コンクールなどで勝ち抜く(笑)ための必勝法(笑)とか、これを踏まえていれば金賞間違いない!なんていうことを書くつもりは一切ありませんのでご了承ください。

そもそも音楽に対して勝ち負けとか言ってる時点で捉え方がおかしいですから、あくまでも僕がどのような目線で審査をしたのか、そこから音楽とどのように向き合っていくことが大切なのかを書いていきます。


《最初の少しだけでおおよそわかります》
まだ自分が採点される側、学生だったときに、

「最初を少し聴けばだいたいわかる」

と言われたことがあります。

しかし、こちらとしては最初だけで決められちゃうのはこまる!後半にテクニカルなところがあってそこすごい頑張って練習したんだから最後まで聴いてから全体を評価して!
と思っていました。

しかし、実際審査する側になってわかりましたが、やっぱり最初でだいたいわかっちゃうんです。残念ですが。

何がわかるか、というと

「全般的な実力」

です。もう少し具体的に挙げてみましょう。


《最初のすこしの時間でわかること》
例えば、一番最初のタンギングをいくつか聴きます。
すると、その人は、そういうタンギングの仕方で演奏をする人なんだな、ということがわかりますね。

タンギングと言っても、舌の付け放し、密閉から開放の瞬間だけを指しているのではありません。タンギングはそのあとに続く音の鳴らし方、離れた舌がその後、どこに位置しているのかで音の鳴り方は大きく変わり、そこまでの一連のうごきがいわゆる「タンギング」として一般的には話題になったり評価されています。
ですから、タンギングを聴いただけで、音域、音圧、音色のコントロール技術などの基礎的な面はおおよそわかります。

そして、楽曲に対する理解度、練習量もわかります。
今まさに演奏している作品を「自分のものにしている」かどうか。言い換えるなら「単に楽譜を見ながら音符を左から右へ並べているだけ」の演奏になっていないか。

ですから、長く延ばした音を聴いただけでもそれはわかります。日々の練習への取り組み、音楽や楽器に対する興味、関心、意欲が伝わるものです。

そもそも、音大生の演奏ですから、難しいパッセージは吹けて当然(その楽曲を選んだからには、楽譜に書かれていることは演奏できて当然)です。吹けなければさらに点数が下がるだけです。厳しいですが、プロを目指す世界ですから、それは仕方のないことです。

もうひとつは、ステージマナーです。
ステージ上での演奏以外の立ち振る舞いからもいろいろと見えてきます。

きちんと客席を見つめて丁寧に挨拶するなど、余裕の感じられる美しい立ち振る舞いができる人は、やはり演奏にも反映されているように感じます。
それは心に余裕があるから、というのもあるのかもしれませんが、沢山の一流の演奏を生で聴く経験が豊富なのだと思います。一度も演奏会を会場で見たことがない人は、ステージマナーも、うごきや表情が相手に与える印象もわかるはずがありません。結果、演奏会に行くことの多い人は、自然と印象の良い立ち振る舞いも身についているのだと僕は思っています。

最初のすこしの時間だけでもこれだけのことがわかります。


《緊張について》
でも、いくら練習していても緊張してしまっていて吹けない、ということも考えられないか?という質問がきそうですが、もちろんそれも含めて見ています。

そもそも勘違いしている方が多いのですが、緊張は悪いものではありません。緊張は集中力が高まっている本能的な戦闘的姿勢なのですから、そこから生まれる心の強さなども音楽には大きく影響します。
緊張をしたことによって、からだの言う事がきかなくなってしまうのは、次のステージに進んでしまった状態です。

緊張を受け入れ、それを味方にできるかどうかもやはり実力のうちだと思うのです。
残酷な話ですが、音楽はどんなに一生懸命真面目に練習を重ねてきても、本番次第で評価が大きく変わってしまうものです。
ですから「きっとこの人はもっと上手に演奏できるんだろうな」とわかっても、今目の前で繰り広げられている演奏に対しての評価をしなければならない、ということはどうしても避けられません。

音楽の厳しさですね。


《加点減点方式》
コンクールではよく「減点/加点方式」という言葉が出てきます。

要するに、ミスしたらミスしたぶんだけ原点という、悪いところがあればどんどん点数を引いていく方法が減点方式。
逆に良いと思ったところを見つけては点数を上げていく方法を加点方式と呼びます。

これらを両方持った上で採点している方も多いかもしれません。
確かにこの方法は、その審査員個人の範囲では公平です。しかし、何を基準に、それらがどのくらい減点される対象なのかを公表しないで進めているわけですから、それがコンクール全体としての公平さには欠けているのではないか、と思います。フィギアスケートのように手が氷に着いたら絶対に減点、みたいなものってありませんからね。

そもそも、数学や物理のテストみたいで、どうもしっくりきません。音楽ってそんな単純なことなのでしょうか。

前述のように、ステージの結果はそれまでの積み重ねだと思うのです。もちろん、演奏はたったの一回。そのときの完成度が評価に直結するのは言うまでもありません。
しかし、そのステージ上での演奏を見ていれば、その人の姿勢や基礎的な実力は見えてくるもので、そこを基準にした上での採点が必要なのだと僕は思っています。

「練習してないけど奇跡的に本番だけミスなく演奏できた」
も、
「一生懸命死ぬ気で練習を積み重ねてきたけど本番上手くいかなかった」

も、どちらも僕としては評価は高くないですし、見ていればおおよそわかります。

しっかりと効率よく頭を使って練習を積み重ね、その実力を本番でも発揮できることがコンクールでは重要です。


大切なことは、ひとつミスしたから減点、なんて単純なことではなく、そのミスがなぜ起こったのか。アクシデントなのか(いつもはそんなことは起こらない)のか、奏法的な点からのミスなのか、楽曲を理解していないか、音楽を感じていない(ソルフェージュ力)ことによるものなのか。それを見抜き、演奏者に伝えることなのではないでしょうか。

ですので、この発表会の審査用紙には点数だけでなくコメントをびっちり書かせてもらいました。どう感じたのか、なぜそのような評価になったのかを。

打ち上げという名の審査結果発表会場(居酒屋)でもその審査用紙が出回っていたようですが、60名の中のどれだけの学生さんがそのコメントを読んでくれたかわかりませんが、ぜひどこかで読んでもらえたら、と思っています。

次回もこの話の続きを書いていきます。

なお、次回の更新は諸事情により一日早い20日(月)に更新致します。ご了承ください。
それでは、また来週!

当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。

at 06:11, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

-, -, pookmark


メトロノームは練習に必要か 2








みなさんこんにちは!

先週から「テンポ」について、とくに「メトロノーム」とテンポの関係について書いています。
先週分をご覧になっていない方は、ぜひ前回から続けてご覧いただければと思います。(先週分はこちらから


《音楽的テンポ感》



正確なテンポを刻むためにメトロノームを常にカチカチさせて演奏している方にお聞きしたいのですが、「やりにくい!」と感じたことありませんか?

技術的なことではなく、「なんか納得いかない」「体がそう反応してくれない」といったストレスを感じるようなやりにくさです。

「でも楽譜のテンポ指示はこの数値だから、しっかりはめこまなきゃ!…なんかやりにくい!」

と葛藤する。

これは、あなたの中に持っている「音楽的テンポ感」が邪魔をしているからです。
言い方を変えれば「歌心」、あなたの音楽的センスと言えるでしょう。

音楽というのは(レコーディングされたポップスや映画音楽作品等の商業音楽を除いて)、正確なテンポをキープしている作品はほとんどありません。
ためしにウィーンフィルでもベルリンフィルでも、どこでもいいですが、テンポが一定であろう部分をメトロノームと合わせてみてください。
全然合わないはずです。

では、その録音をメトロノームなしで聴いて、「テンポが不安定だ!ダメな音楽だ!」とか「こんな正確じゃないテンポで金賞は取れないよ!」などと思えるでしょうか。

そうは思わないはずです。

人間は、音楽に正確なテンポを求めて聴いているわけではありません。
メロディやその作品の持っている個性に、より合った(と、奏者等が感じている)演奏、人間的な心から発せられる歌から生まれるテンポを求めて聴いているのです。

それを「音楽的テンポ」と呼んでいます。


奏者は何よりもこの音楽的テンポ感を大切に演奏しなければならないと思っています。


《音楽的テンポ感はだれにでも備わっている》
世の中にテンポ感の悪い人はほとんどいません。
「いや、テンポ感が悪いんです!先生によく怒られるから」と一生懸命メトロノームにテンポをはめこむ練習をしている方、あなたもテンポ感は実は悪くないのです。

みなさん、友達と横に並んで一緒に歩きますよね?一緒に歩こうとしているのにどんどん先に行ってしまうとか、一緒に買い物に出発したのに、気づいたら友達より5分も早くお店に着いちゃったとか、そんなことありえませんよね。「歩調を合わせる」と言いますが、これはテンポ感の一種です。

テンポを合わせる=一歩一歩の足の動かし方も、その距離感も完全に一致させるだけが合わせることと思わないでください。


友達が、お互いのよく知っている曲を突然口ずさんだとしましょう。あなたも一緒に歌ったとします。気づいたら先に歌い終わっていた、なんてこと絶対ありませんよね。
その歌が、メトロノーム的、機械的な正確さとしては合っていなかったとしても、二人が「一緒に歌おう」と思っていれば、一緒に最後まで歌い続けることは簡単なことです。
それがメトロノーム的テンポとは合っていなかったとしても、そんなことは関係なく「一緒に歌ったこと」が嬉しくて、楽しくて、充足感を得られるはずです。

これが人間の心の中に持っている「音楽的テンポ感」です。

一緒に歩いたり、歌を口ずさんだりするのと同じようにトランペットでも友達と音楽的テンポ感を合わせることは決して難しいことではありません。


走ってしまったり安定しないのは、テンポ感が悪いのではなく、例えば楽譜を読むことに気を取られすぎていたり、フィンガリングが難しくてそれどころじゃなかったり、緊張していてテンポに対する意識を持てなかったりする「テンポ以外のこと」が原因である場合も非常に多いのです。



《呼吸とメトロノーム》
メトロノームを鳴らしっぱなしで演奏していると、曲中の「呼吸」がうまく取れなくて困りませんか?

もはやブレスしないで最後まで吹ければ、こんな乱れないのに!こうなったら循環呼吸の練習だ!みたいな発想になっていたら危険です。

曲中のブレスが苦手としている方、または自覚がないけれど、本来の呼吸とは違う空気の吸引が当たり前になっている方は管楽器の世界では非常に多いのです。曲が進み、ブレス回数が増えれば増えるほど息苦しくなり、演奏できる長さがどんどん短くなってしまう方、その元凶はメトロノームを使った練習にあると思います。


コンピュータが演奏している音楽って、すぐ「人間じゃないな」とわかりますよね。最近のCG(コンピュータ・グラフィックス)技術は飛躍的に進歩していて、パッと見では実際の映像と判別がつかないことも増えてきましたが、コンピュータ音楽に関してはまだそこまで到達しているようには感じません。
あの有名な初音ミクも、人間が歌っていると思って聴いている人はいないと思います。作品の善し悪しではなく、やはりコンピュータからの電気信号にしか聞こえません。存在否定はしていませんよ。

逆にPerfumeのように人間の声を電気的に変換していても「元は人間が歌っているんだな」とわかりますよね。

これらの理由のひとつが「呼吸」の存在です。

人間は、呼吸を感じられない存在を「生命」として認識しづらいものです。呼吸は単なる生命維持のためのガス交換だけが目的ではなく、話し方や体のうごき、思考など様々な面で呼吸が関係しています。

当たり前ですがメトロノームは呼吸をしていません。ですから、メロディの合間に呼吸を必要とする、なんて理解はをしてくれるわけもなく、単なる物理的な正確性を貫いているだけです。
その機械と人間が、音楽に込められた「生命力」や「心」を表現するためにある音楽で共存できるはずがないのです。必ずどちらかがある程度妥協するしかありません。

管楽器における呼吸は、絶対に必要です。
そして、音楽においても呼吸は絶対に必要です。

音楽は呼吸をしています。無機質に音がタイミングよく羅列したものを芸術、音楽とは呼べません。

僕はレッスンで、呼吸をできるだけ音符の羅列を乱さないように、もしくは人間の体の構造を無視した「偽物の呼吸」をしている生徒さんには、一旦それらをリセットしてもらい、メロディ間の呼吸に、充分時間をかけ、尊重してもらうようにお願いします。結果的に楽譜にない空白の1拍が生まれてもまったく構いません。

その瞬間、楽譜通りではなくなりましたが、音楽と人間の自然な呼吸が共存します。

これをスタート地点として、その作品が、きちんと作品として活きてるように、正しい呼吸の方法を素早くできるようにすることを課題とします。

そうすると不思議なことにメトロノームには全然一致しないのに、聴いていて何も違和感のない、むしろそちらのほうがテンポが流れている美しい音楽と感じられる演奏になるのです。
呼吸がいかに音楽にとって大切なことか、理解できる瞬間ではないか、と思います。

これは管楽器だけの話ではありません。打楽器も弦楽器も鍵盤楽器も指揮者も、すべての音楽を表現する人たちには「呼吸」が大切であり、必要なのです。


《アンサンブル》
アンサンブルやパート練習のとき、指揮者がいないからと自分たちの前にメトロノームを置き、それに合わせて(部分的にでも)曲を通す、という光景を何度となく見かけますが、これまでの話からすれば、この行為が音楽的には悪い方向に進んでいると理解できることと思います。

アンサンブルを作り上げているのは、演奏者全員の、それぞれの中に持っている音楽的テンポ感、音楽的呼吸、作品のイメージ、どのように表現するかのある程度共通したイメージ、そしてフレーズ感など、様々な要素によって音楽は作り上げられていきます。

もうひとつ、「ある程度のビート感」も必要です。メトロノームで確認した均一なビートを持ち続けることは大切ですが、しかし、それに最初から最後まで合致させる必要はないし、それをやってしまうと人間味、芸術性が失われてしまいます。


《メトロノームの効果的な使い方》
では、メトロノームなど必要ないのか、使い道などないのか、というとそうではありません。
正確なテンポをキープできる機能を生かして、自分を成長させてくれる使い方がいくつかありますので紹介します。


[おおよそのテンポ(ビート)を理解する]
これはすでにお話した通りです。その作品の持つテンポがどのくらいなのかを正確に知ることができます。


[フィンガリング練習]
難しい指づかいがあるときに重宝します。強制的なテンポが存在していると、そこの中にすべての音を存在させなければならないので、解決方法を模索するきっかけになります。
手段を選ばずにやみくもに指を一生懸命並べていても苦手なフィンガリングはほとんど改善されませんが、手助けになる存在です。


[奏法を強化するとき]
音の跳躍(インターバル)や、幅広い音域のリップスラー、リップトリルなどの「(場合によって)奏法を優先してしまいがち」なテクニカル練習時に役立ちます。
例えば跳躍練習で、一生懸命広い音域を移動しようとすると、大きな体のうごきが必要と勘違いしがちで、時間をかけてしまう場合があります。しかし、それは奏者の都合であり、音楽的にも、その演奏を聴く人にも必要のないことですから、そういった意味で技術を磨くためにメトロノームを使うことは非常に有効です。
しかしこれも、手段を考えずにやみくもに練習するのは意味がありません。

また、ヴィブラートをかける練習にも使えます。


[呼吸を音楽的に使うための練習]
先ほどの呼吸とは違い、曲頭や長い休みがあった後の吹き始めです。
人間の正しい呼吸のシステムを無視して管楽器を演奏することはできません。管楽器用の特殊な吸気(空気が体内に入る行為)など存在していませんから、「応用」するしか方法がありません。
そのとき、からだのシステムと、音楽的(拍のアタマから正確に入るなどの)要素を合体させるときに有効です。

他にもあると思いますが、こういった便利な使い方は沢山ありますので、用法用量をしっかり決めた上で、正しく使いたいとこです。薬みたい。

ということで、2週に渡ってメトロノームについて書いてみました。
ぜひ参考にしてみてください!

当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。

at 07:21, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方

-, -, pookmark