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荻原 明
【販売部数1000部達成!】「ラッパの吹き方」ブログ著者、荻原明 初の教則本!ウォームアップと奏法の基礎を身につけられる一冊です!
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2017.01.31 Tuesday
メトロノームは練習に必要か 1
みなさんこんにちは!
前回は吹奏楽で大人気の「宝島」のテンポについて書きました。速すぎやしないか、と。
僕の個人的感想なので、当然、楽曲の演奏テンポは指揮者や団体ごとに自由です。
しかし、音楽…特にオーケストラや吹奏楽などといったクラシック音楽(寄り)の演奏形式、いわゆる芸術といわれる分野は、「創作した人(音楽の場合は作曲者、編曲者)」と「演奏する人」のバランスが大切になります。
作編曲者は、その作品をどのように演奏して欲しいか、具体的な完成図を持った上で楽譜にしています。しかし作曲者が書いた楽譜がそこに存在しているだけでは大半の人間には、それがどんな音として聴こえるのかがわかりません。ですから、演奏者はその作品がどのようなものなのかを聴く人に伝える役割、「仲介役」を担っていると言えます。
しかし、それだけだったらこの時代、コンピュータにでもやってもらえばいいだけです。ということは演奏者には他にも大事なことがあるのです。
それが「自分の心を作品に込める」という作業。
演奏する作品がどのような完成図になるかを理解した上で、「自分だったらこう表現する(したい)」という心を入れることが必須です。そうすることで、「その奏者しかできないその作品の表現」が生まれるのです。
お客さんは、その作品を聴きたいというだけでなく、「この人だったらその作品をどのように演奏してくれるのだろう」という期待も含め、聴いてくれています。
そのような関係性があるからこそ、クラシック音楽は非常に長い間、様々な奏者によって何度も何度も色あせることなく演奏され続けらているのです。
話を戻すと、「宝島」もどんなイメージを持って演奏するかは、個人や団体の自由で結構です。しかし、それは「原曲と吹奏楽編曲作品としての存在を尊重(理解)した上で」という、約束があります。
ということは編曲された意図…どんな完成図になっているのかを理解して、「それだったら自分はこんなテンポで演奏したい!だってそれが一番カッコイイと思うから!」と表現して欲しいんですね。
奏者の気分の高揚だけに任せて、編曲作品が活きてこない演奏表現はするべきではなく、最近はだいぶテンポが速くて、この作品の持っているメロディの良さや、サンバ形式を採用した編曲の効果が活かされていないと感じる演奏が多いと思い、このような記事を書いたわけです。
ですから、前回の記事に関しては、単純な個人的見解ではない、ということを理解してもらえれば嬉しいです。
ということでテンポの話題になりましたので、今回はその流れで書いていきます。
《メトロノーム》
みなさんは、練習時にメトロノームを使いますか?
吹奏楽部にはひとりひとつあるんですか?というくらい沢山のメトロノームが置いてあるところもすくなくありません。しかも、びっくりするくらい巨大なメトロノームを指揮台に置いてガッチンガッチン鳴らしているところもよく見かけます。
どうでもいいですがメトロノームってどのくらいまで巨大化できるんですかね?人間と同じくらいのサイズになると、横に立つと危険ですよね。
さて、このメトロノーム、性格な「ビート」を刻んでくれる単純かつ便利な道具ではありますが、みなさんはこれをどんな目的を持って使っていますか?
これがきちんと答えられる方は、メトロノームを効果的に使っていると思います。
しかし、
「楽譜に書いてあるテンポ通りの演奏をするために、メトロノームに合わせている」
「タテが(他の奏者と)ずれないようにするために全員でメトロノームに合わせて練習している」
などをメトロノームの使い方、目的としている方は、要注意です。
《メトロノーム本来の目的》
メトロノームは本来、『作曲者(編曲者)が想定しているテンポを奏者へ正確に伝えるため』に存在した、と考えられます。
古くはベートーヴェンが使っていたようですが、テンポというのは「Allegro(=快活に)」とか「Andante(=ほどよくゆっくりと/歩くように)」などといった「楽語」で示すことが昔から一般的で、今も使われています。作品の持つ雰囲気を伝えるにはこの速度に関する楽語は重要な存在ですが、人によって受け取る「快活さ」や「ほどよいゆっくり感」はかなり違います。よって正確にテンポを伝えるためには「数値化」されているほうが便利なわけです。
「Allegroって書いてあったらか1拍120くらいなのかと思ったら、132だったんだ!想像以上に速いテンポを想定した作品なんだね!」
というやりとりによって、作曲者が「遅いなあ、違うんだよなあ」とガッカリすることもなく、演奏できる便利なツールというわけです。
よって、メトロノームは具体的なテンポを「理解する」ために用いることが本来の使用目的なのです。
それがいつの間にか「正確なリズムを刻み続ける道具」になっていました。
メトロノームに合わせて楽譜を演奏する。この行為、100%悪いわけではありませんが、決して良い使い方だとは思いません。
なぜかわかりますか?
それは
「他力本願」だからです。
《「走る」演奏を解決するには》
テンポというのは、自分が生み出すもの、自分の中に作り上げるものです。
そしてテンポをキープするのは、奏者ひとりひとりの「自覚」です。
(指揮者は?と思うかもしれませんが、指揮者は本来そんな仕事をする人ではありません!指揮者をメトロノーム的テンポ制御装置のように見てはいけませんし、指揮をされる方もそれを意識してはいけません)。
「でも、合奏で「走る!(テンポキープができていない)」と指摘されたから、メトロノームを使って練習するのはダメなの?」
という意見があるかもしれませんが、メトロノームをカチカチ鳴ら続けている最中は、それに合わせて吹けても、合奏になるとやっぱり指摘をされた経験、きっとあると思います。
「それは、自分の練習量が足りないからだよ」
「もっとメトロノームを使って正確にテンポを刻めるようになれば、走らなくなるよ」
という意見があるかもしれませんが、…確かに何回も何十回も何十時間も同じことを繰り返していけば、まるでロボットのようなテンポを刻めるようになるかもしれません。しかし、我々が目指していることは、そんな単純なことなのでしょうか。音楽とはそういうものなのでしょうか。
「正確な(メトロノームのような)テンポで演奏すること」と「走らないように演奏すること」が混同していませんか?
仮に、正確な機械的テンポが本当に求められているのであれば、ポップスのレコーディングのように、本番も全員イヤホンでもして、クリック音を聴きながら演奏したほうがいいですし、今の技術ならいくらでも可能でしょう。しかし、そんなことをして舞台でお客さんを前に演奏をしている管弦楽団や吹奏楽団はどこにもいません。
「それは、その団体が上手いんだよ」
「個人の実力の問題だよ」
という意見があるかもしれませんが、そうではありません。「走る」のは全然違うところに理由があるのです。
ざっくり言えば「ビート感(こまかなテンポ感)」と同時に「大きなフレーズ感」を作り出すことでほとんどの場合は解決します。レッスンで走ってしまった場合は、テンポという考え方から一旦離れ、フレーズ感を強く持てる練習を少し行うことでみなさんすぐに良くなります。原因はとても単純なことであり、同時に音楽にとっては何よりも大切なことです。
テンポというのは自分の中に生み出すものなのです。
ということで、長くなりそうなのでここで一旦区切ります。
次週はこの続きです。引き続きご覧下さい!
また来週!
前回は吹奏楽で大人気の「宝島」のテンポについて書きました。速すぎやしないか、と。
僕の個人的感想なので、当然、楽曲の演奏テンポは指揮者や団体ごとに自由です。
しかし、音楽…特にオーケストラや吹奏楽などといったクラシック音楽(寄り)の演奏形式、いわゆる芸術といわれる分野は、「創作した人(音楽の場合は作曲者、編曲者)」と「演奏する人」のバランスが大切になります。
作編曲者は、その作品をどのように演奏して欲しいか、具体的な完成図を持った上で楽譜にしています。しかし作曲者が書いた楽譜がそこに存在しているだけでは大半の人間には、それがどんな音として聴こえるのかがわかりません。ですから、演奏者はその作品がどのようなものなのかを聴く人に伝える役割、「仲介役」を担っていると言えます。
しかし、それだけだったらこの時代、コンピュータにでもやってもらえばいいだけです。ということは演奏者には他にも大事なことがあるのです。
それが「自分の心を作品に込める」という作業。
演奏する作品がどのような完成図になるかを理解した上で、「自分だったらこう表現する(したい)」という心を入れることが必須です。そうすることで、「その奏者しかできないその作品の表現」が生まれるのです。
お客さんは、その作品を聴きたいというだけでなく、「この人だったらその作品をどのように演奏してくれるのだろう」という期待も含め、聴いてくれています。
そのような関係性があるからこそ、クラシック音楽は非常に長い間、様々な奏者によって何度も何度も色あせることなく演奏され続けらているのです。
話を戻すと、「宝島」もどんなイメージを持って演奏するかは、個人や団体の自由で結構です。しかし、それは「原曲と吹奏楽編曲作品としての存在を尊重(理解)した上で」という、約束があります。
ということは編曲された意図…どんな完成図になっているのかを理解して、「それだったら自分はこんなテンポで演奏したい!だってそれが一番カッコイイと思うから!」と表現して欲しいんですね。
奏者の気分の高揚だけに任せて、編曲作品が活きてこない演奏表現はするべきではなく、最近はだいぶテンポが速くて、この作品の持っているメロディの良さや、サンバ形式を採用した編曲の効果が活かされていないと感じる演奏が多いと思い、このような記事を書いたわけです。
ですから、前回の記事に関しては、単純な個人的見解ではない、ということを理解してもらえれば嬉しいです。
ということでテンポの話題になりましたので、今回はその流れで書いていきます。
《メトロノーム》
みなさんは、練習時にメトロノームを使いますか?
吹奏楽部にはひとりひとつあるんですか?というくらい沢山のメトロノームが置いてあるところもすくなくありません。しかも、びっくりするくらい巨大なメトロノームを指揮台に置いてガッチンガッチン鳴らしているところもよく見かけます。
どうでもいいですがメトロノームってどのくらいまで巨大化できるんですかね?人間と同じくらいのサイズになると、横に立つと危険ですよね。
さて、このメトロノーム、性格な「ビート」を刻んでくれる単純かつ便利な道具ではありますが、みなさんはこれをどんな目的を持って使っていますか?
これがきちんと答えられる方は、メトロノームを効果的に使っていると思います。
しかし、
「楽譜に書いてあるテンポ通りの演奏をするために、メトロノームに合わせている」
「タテが(他の奏者と)ずれないようにするために全員でメトロノームに合わせて練習している」
などをメトロノームの使い方、目的としている方は、要注意です。
《メトロノーム本来の目的》
メトロノームは本来、『作曲者(編曲者)が想定しているテンポを奏者へ正確に伝えるため』に存在した、と考えられます。
古くはベートーヴェンが使っていたようですが、テンポというのは「Allegro(=快活に)」とか「Andante(=ほどよくゆっくりと/歩くように)」などといった「楽語」で示すことが昔から一般的で、今も使われています。作品の持つ雰囲気を伝えるにはこの速度に関する楽語は重要な存在ですが、人によって受け取る「快活さ」や「ほどよいゆっくり感」はかなり違います。よって正確にテンポを伝えるためには「数値化」されているほうが便利なわけです。
「Allegroって書いてあったらか1拍120くらいなのかと思ったら、132だったんだ!想像以上に速いテンポを想定した作品なんだね!」
というやりとりによって、作曲者が「遅いなあ、違うんだよなあ」とガッカリすることもなく、演奏できる便利なツールというわけです。
よって、メトロノームは具体的なテンポを「理解する」ために用いることが本来の使用目的なのです。
それがいつの間にか「正確なリズムを刻み続ける道具」になっていました。
メトロノームに合わせて楽譜を演奏する。この行為、100%悪いわけではありませんが、決して良い使い方だとは思いません。
なぜかわかりますか?
それは
「他力本願」だからです。
《「走る」演奏を解決するには》
テンポというのは、自分が生み出すもの、自分の中に作り上げるものです。
そしてテンポをキープするのは、奏者ひとりひとりの「自覚」です。
(指揮者は?と思うかもしれませんが、指揮者は本来そんな仕事をする人ではありません!指揮者をメトロノーム的テンポ制御装置のように見てはいけませんし、指揮をされる方もそれを意識してはいけません)。
「でも、合奏で「走る!(テンポキープができていない)」と指摘されたから、メトロノームを使って練習するのはダメなの?」
という意見があるかもしれませんが、メトロノームをカチカチ鳴ら続けている最中は、それに合わせて吹けても、合奏になるとやっぱり指摘をされた経験、きっとあると思います。
「それは、自分の練習量が足りないからだよ」
「もっとメトロノームを使って正確にテンポを刻めるようになれば、走らなくなるよ」
という意見があるかもしれませんが、…確かに何回も何十回も何十時間も同じことを繰り返していけば、まるでロボットのようなテンポを刻めるようになるかもしれません。しかし、我々が目指していることは、そんな単純なことなのでしょうか。音楽とはそういうものなのでしょうか。
「正確な(メトロノームのような)テンポで演奏すること」と「走らないように演奏すること」が混同していませんか?
仮に、正確な機械的テンポが本当に求められているのであれば、ポップスのレコーディングのように、本番も全員イヤホンでもして、クリック音を聴きながら演奏したほうがいいですし、今の技術ならいくらでも可能でしょう。しかし、そんなことをして舞台でお客さんを前に演奏をしている管弦楽団や吹奏楽団はどこにもいません。
「それは、その団体が上手いんだよ」
「個人の実力の問題だよ」
という意見があるかもしれませんが、そうではありません。「走る」のは全然違うところに理由があるのです。
ざっくり言えば「ビート感(こまかなテンポ感)」と同時に「大きなフレーズ感」を作り出すことでほとんどの場合は解決します。レッスンで走ってしまった場合は、テンポという考え方から一旦離れ、フレーズ感を強く持てる練習を少し行うことでみなさんすぐに良くなります。原因はとても単純なことであり、同時に音楽にとっては何よりも大切なことです。
テンポというのは自分の中に生み出すものなのです。
ということで、長くなりそうなのでここで一旦区切ります。
次週はこの続きです。引き続きご覧下さい!
また来週!
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at 07:02, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方
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2017.01.24 Tuesday
最近の「宝島」の演奏
みなさんこんにちは!
「宝島」、演奏したことありますか?
演奏経験のある方、とても多いと思いますし、吹奏楽経験者なら一度は聴いたことのある作品だと思います。
僕も大好きな曲のひとつですが、最近ホントに流行ってますよね。
元々あの楽譜はニューサウンズ・イン・ブラスのシリーズで1987年の発売されたものです。オリジナルはT-SQUARE(発表当時はTHE SQUARE)の作品。
古いですね!今、現役で吹奏楽部に所属している方は、全然生まれていないくらい古いです。
しかも、もしかすると、オリジナルがあるって知らない方もいらっしゃるかもしれませんね。「ティースクエアってなんだ?」「フュージョンってなんだ?合体でもするのか?」という感じの方もきっといますよね。
それくらい吹奏楽アレンジが秀逸で、多くの人に親しまれているということなのでしょう。
《流行は循環する》
宝島も含めて、ここ5,6年くらいでしょうか。僕としては「うわ!懐かしい!」「中学生のとき吹いた!」「昔流行ってたね!」という曲を今まさに演奏している吹奏楽団体やレッスンで楽譜を持参する方が多いです。
なぜだろう、と考えてみたのですが、ちょうど当時(25年くらい前)に演奏していた中高生吹奏楽部員だった子どもたちが、今はすっかり大人になって、気づけば吹奏楽部の顧問になっていたり、指導者になっていたり、一般バンドの中心的存在になっていたりするのではないか、と思うのです。その人たちが選曲するわけですから、おのずと昔やった曲を再演(もしかするとリベンジ?)したいという流れになるのは当然ですよね。
多分、そんなことも含めて、懐かしい曲を演奏する団体が多いのだと思っています。
ですから、またこの先20年くらいすると再燃してくる曲って多いのかもしれません。
ファッションみたいに吹奏楽曲も流行は循環しているようです。
《宝島の気になること》
さて、大人気の宝島ですが、そもそも「ラッパの吹き方」ブログで課題曲以外にひとつの作品を名指しで書くなんてこと初めてなのです(多分)。
なぜ書いたのかと言いますと、ひとつ言いたいことがあるのです。それは
「最近の『宝島』のテンポ、速すぎやしませんか?」
ということ。
《テンポの境界線》
テンポは、その作品の印象を大きく左右します。
一般的には速いテンポは「元気」「活発」「賑やか」
このようなイメージを与えることが多いです。
しかし、テンポが速すぎると、「慌ただしい」「せわしない」「乱雑」
といったネガティブな印象を与えてしまいます。
ではこの「速い」と「速すぎる」境界線はどこにあるのでしょうか。
《テンポも主観的ではなく客観的》
(速い)テンポの境界線は
「細かな音(リズム)がきちんと聴く人の耳に届いているか」
です。自分が演奏できているか、ではありません。聴く人がどうかが重要なのです。
ですから、テンポを上げすぎた結果、楽譜通りに演奏できなくなってしまうのはアウトです。
音楽に関しては何でもそうですが、奏者の主観で演奏するのは良くありません。必ず聴く人の立場になって客観的に演奏すべきです。
《「宝島」の場合》
吹奏楽編曲版「宝島」は、ラテンパーカッションを多用したサンバのリズムをベースに書かれています。そして、「フレーズ感たっぷりの雄大なメロディ」が、オリジナル作品そのものの持っている性質です。
サンバはシンコペーションや16分音符(休符)を中心としたリズムで構成されていて、意外に細かい音が多いです。横にスルスルと流れてしまうような音楽ではなく、拍感を強く感じられる重いリズムが含まれた音楽です。
そして、もともと16ビートの音楽なのでテンポが速くなくても活発な印象を持ちます。
この細かな16分音符(休符)から生まれるリズム感、ビート感を効果的に演奏し、しかもそれが聴く人の耳にしっかり届かせるためには、奏者が必死に音符を並べて演奏せざるを得ない速すぎるテンポでは、編曲意図も活かされません。
ましてやトランペット、トロンボーン吹きにとっては、よく難関と言われている「練習番号H」のSoli(ソリ:Soloの複数形)があります。アルトサックスにもカッコイイソロが2回も出てきます。これも16分音符の連続でなかなか手強い。バックのバンドの音が厚すぎて、あまり聴こえないパターンも多く、ちょっとかわいそうなときもあります。
トランペット、トロンボーンの方の中には「練習番号H」が大変!吹けない!と言う方がとても多いのですが、テンポがもっと落ち着いて、サンバのビート感が生まれれば、自然と長いフレーズ感を持つことができますから、そのメロディが「それらしく」表現できるのです。速く設定したメトロノームに一生懸命はめようとしているから、できない!難しい!となってしまうのです。「宝島」編曲版の本来曲の持っている「良さ」が活かされないほどに速いテンポで演奏してしまえば、演奏できないのは当たり前です。
全部の音がしっかり聴こえて、全部の休符がしっかり感じられて、長く雄大なフレーズ感を持ったメロディやオブリガードを表現し、打楽器のビート感、シンコペーションがシンコペーションとして効果を発揮するサンバのリズム感を出すために、提案します。
「四分音符=112で演奏してみませんか?」
カッコイイと思うんだけどなぁ。ダメですかね。
(ってか、楽譜的にはそのテンポなんですけどね)
《奏者は冷静にアクティブで》
僕は世代的にも、オリジナルのTHE SQUAREを先に聴いていたから尚更なのかもしれませんが、吹奏楽編曲のほとんどの演奏で、最初のアゴゴを聴いた瞬間に「速い!!」と感じてしまい、この先に待ち構える音符同士が重なり合った超特急「練習番号H」を想像してしまうのです。
もしかすると、「宝島」はコンサートのアンコールなど、クライマックス的な立ち位置で演奏することが多いから、演奏者のメンタル面の緩み、興奮、演奏に対する集中力の欠如(これで終わる!引退!打ち上げ!...ビール!)などの影響で、テンポ制御が効かなくなっているのかもしれませんが、どうしても速すぎる宝島の演奏からは、作品を雑に扱ってしまっている印象を受けてしまうのです。
興奮したり、作品を聴いて活発さを感じるのは奏者ではなく、お客さんのほうです。
主観ではなく、客観です。
もちろん奏者もアクティブでなければなりませんが、冷静にアクティブな演奏をすることが求められます。
どんなときでも興奮して演奏が乱れてしまうような精神状態になるべきではありません。
ぜひ一度、だまされたと思って一度テンポをグッと落としてフレーズ感をたっぷり持ち、冷静なアクティブさで演奏してみてください。
アゴゴ担当の方、パーカッションの方、ぜひお願いします!
遅いテンポのほうがカッコイイと思うんだけどなぁ。。。
ということで、今回はここまでです。
テンポの話をしたので、次回も関連した内容を書いてみようと思います。
それでは、また来週!
「宝島」、演奏したことありますか?
演奏経験のある方、とても多いと思いますし、吹奏楽経験者なら一度は聴いたことのある作品だと思います。
僕も大好きな曲のひとつですが、最近ホントに流行ってますよね。
元々あの楽譜はニューサウンズ・イン・ブラスのシリーズで1987年の発売されたものです。オリジナルはT-SQUARE(発表当時はTHE SQUARE)の作品。
古いですね!今、現役で吹奏楽部に所属している方は、全然生まれていないくらい古いです。
しかも、もしかすると、オリジナルがあるって知らない方もいらっしゃるかもしれませんね。「ティースクエアってなんだ?」「フュージョンってなんだ?合体でもするのか?」という感じの方もきっといますよね。
それくらい吹奏楽アレンジが秀逸で、多くの人に親しまれているということなのでしょう。
《流行は循環する》
宝島も含めて、ここ5,6年くらいでしょうか。僕としては「うわ!懐かしい!」「中学生のとき吹いた!」「昔流行ってたね!」という曲を今まさに演奏している吹奏楽団体やレッスンで楽譜を持参する方が多いです。
なぜだろう、と考えてみたのですが、ちょうど当時(25年くらい前)に演奏していた中高生吹奏楽部員だった子どもたちが、今はすっかり大人になって、気づけば吹奏楽部の顧問になっていたり、指導者になっていたり、一般バンドの中心的存在になっていたりするのではないか、と思うのです。その人たちが選曲するわけですから、おのずと昔やった曲を再演(もしかするとリベンジ?)したいという流れになるのは当然ですよね。
多分、そんなことも含めて、懐かしい曲を演奏する団体が多いのだと思っています。
ですから、またこの先20年くらいすると再燃してくる曲って多いのかもしれません。
ファッションみたいに吹奏楽曲も流行は循環しているようです。
《宝島の気になること》
さて、大人気の宝島ですが、そもそも「ラッパの吹き方」ブログで課題曲以外にひとつの作品を名指しで書くなんてこと初めてなのです(多分)。
なぜ書いたのかと言いますと、ひとつ言いたいことがあるのです。それは
「最近の『宝島』のテンポ、速すぎやしませんか?」
ということ。
《テンポの境界線》
テンポは、その作品の印象を大きく左右します。
一般的には速いテンポは「元気」「活発」「賑やか」
このようなイメージを与えることが多いです。
しかし、テンポが速すぎると、「慌ただしい」「せわしない」「乱雑」
といったネガティブな印象を与えてしまいます。
ではこの「速い」と「速すぎる」境界線はどこにあるのでしょうか。
《テンポも主観的ではなく客観的》
(速い)テンポの境界線は
「細かな音(リズム)がきちんと聴く人の耳に届いているか」
です。自分が演奏できているか、ではありません。聴く人がどうかが重要なのです。
ですから、テンポを上げすぎた結果、楽譜通りに演奏できなくなってしまうのはアウトです。
音楽に関しては何でもそうですが、奏者の主観で演奏するのは良くありません。必ず聴く人の立場になって客観的に演奏すべきです。
《「宝島」の場合》
吹奏楽編曲版「宝島」は、ラテンパーカッションを多用したサンバのリズムをベースに書かれています。そして、「フレーズ感たっぷりの雄大なメロディ」が、オリジナル作品そのものの持っている性質です。
サンバはシンコペーションや16分音符(休符)を中心としたリズムで構成されていて、意外に細かい音が多いです。横にスルスルと流れてしまうような音楽ではなく、拍感を強く感じられる重いリズムが含まれた音楽です。
そして、もともと16ビートの音楽なのでテンポが速くなくても活発な印象を持ちます。
この細かな16分音符(休符)から生まれるリズム感、ビート感を効果的に演奏し、しかもそれが聴く人の耳にしっかり届かせるためには、奏者が必死に音符を並べて演奏せざるを得ない速すぎるテンポでは、編曲意図も活かされません。
ましてやトランペット、トロンボーン吹きにとっては、よく難関と言われている「練習番号H」のSoli(ソリ:Soloの複数形)があります。アルトサックスにもカッコイイソロが2回も出てきます。これも16分音符の連続でなかなか手強い。バックのバンドの音が厚すぎて、あまり聴こえないパターンも多く、ちょっとかわいそうなときもあります。
トランペット、トロンボーンの方の中には「練習番号H」が大変!吹けない!と言う方がとても多いのですが、テンポがもっと落ち着いて、サンバのビート感が生まれれば、自然と長いフレーズ感を持つことができますから、そのメロディが「それらしく」表現できるのです。速く設定したメトロノームに一生懸命はめようとしているから、できない!難しい!となってしまうのです。「宝島」編曲版の本来曲の持っている「良さ」が活かされないほどに速いテンポで演奏してしまえば、演奏できないのは当たり前です。
全部の音がしっかり聴こえて、全部の休符がしっかり感じられて、長く雄大なフレーズ感を持ったメロディやオブリガードを表現し、打楽器のビート感、シンコペーションがシンコペーションとして効果を発揮するサンバのリズム感を出すために、提案します。
「四分音符=112で演奏してみませんか?」
カッコイイと思うんだけどなぁ。ダメですかね。
(ってか、楽譜的にはそのテンポなんですけどね)
《奏者は冷静にアクティブで》
僕は世代的にも、オリジナルのTHE SQUAREを先に聴いていたから尚更なのかもしれませんが、吹奏楽編曲のほとんどの演奏で、最初のアゴゴを聴いた瞬間に「速い!!」と感じてしまい、この先に待ち構える音符同士が重なり合った超特急「練習番号H」を想像してしまうのです。
もしかすると、「宝島」はコンサートのアンコールなど、クライマックス的な立ち位置で演奏することが多いから、演奏者のメンタル面の緩み、興奮、演奏に対する集中力の欠如(これで終わる!引退!打ち上げ!...ビール!)などの影響で、テンポ制御が効かなくなっているのかもしれませんが、どうしても速すぎる宝島の演奏からは、作品を雑に扱ってしまっている印象を受けてしまうのです。
興奮したり、作品を聴いて活発さを感じるのは奏者ではなく、お客さんのほうです。
主観ではなく、客観です。
もちろん奏者もアクティブでなければなりませんが、冷静にアクティブな演奏をすることが求められます。
どんなときでも興奮して演奏が乱れてしまうような精神状態になるべきではありません。
ぜひ一度、だまされたと思って一度テンポをグッと落としてフレーズ感をたっぷり持ち、冷静なアクティブさで演奏してみてください。
アゴゴ担当の方、パーカッションの方、ぜひお願いします!
遅いテンポのほうがカッコイイと思うんだけどなぁ。。。
ということで、今回はここまでです。
テンポの話をしたので、次回も関連した内容を書いてみようと思います。
それでは、また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 07:54, 荻原明(おぎわらあきら), 本番・合奏練習
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2017.01.17 Tuesday
言語化されたアドバイス
みなさんこんにちは!
みなさんはレッスンなど、これまでにトランペットを誰か(本なども含む)に教わった経験が一度くらいはあると思います。
特に奏法面について話題になったとき、言われた通りやっているのに結果が伴わなかったり、何だかしっくりこない、場合によっては「それは違う」と指摘され、「言われた通りやってるじゃん!」なんて思ったり、そんな経験はありませんか?
なぜこのようなことが起こるか。それは
「奏法を言語化しているから」
要するに「言葉で伝えている」ということです。
《レッスンとは》
レッスン(教わる)とは、
・先生の生演奏を目の前で独り占めできる
・自分が持っていない表現方法や奏法について教えてもらえる
・自分の演奏や奏法について指摘をしてくれる(認められたり修正してくれる)
このような、いわばかゆいところに手が届く時間です。
そしてそのレッスンでは必ず「言葉」が使われます。
しかし、音楽において、とくに奏法について言葉を用いるのはとても難しいことであり、上手く伝達し合えていないことが多々あるのです。
《結果は同じでも》
例えば、以下の言葉を先生が言ったとしましょう。あなたはどのような印象を受けますか?
1.顎関節(がくかんせつ)を使う
2.口腔内(口の中)の容積が大きくなる
3.上下の歯が遠のく
4.「オ」と発音する
いかがでしょうか。これらすべての表現が、簡単に言えば「口を開ける」と捉えることができます。
言葉による表現はこんなにも変えることができてしまうのです。
アドバイスをするとき、先生は生徒さんに一番意識してほしいからだの部分(話題の中心)をまっさきに口に出してしまうのはよくあることです。よって、結果的に同じうごきであっても、状況によって単語のチョイスを変えてくる可能性は充分にあります。
しかし、これは教わる側にとって困惑する要因です。
どうしても強調された単語を教わる側としてはクローズアップして捉えてしまい、人によっては本来人間の持っている自然なうごきができなくなる場合があるからです。
《言葉には順序がある》
ここで、ゲームセンターなどにあるUFOキャッチャー、あの動作の一部分を言語化してみます。
『ボタンが押されると、電気信号によってアームのワイヤーが反応し、左右に移動する』
専門家ではないので細かなところはご容赦願いたいのですが、このように言葉で解説すると必ず順番に並べる必要が出てきます。
ボタン→押す→電気が流れ→アームのワイヤーが→反応したら→左に→もしくは右に→移動する
実際に我々が目にしているUFOキャッチャーの動きは、このようにひとつずつ順番に行われるというよりも、すべてが同時に反応し、動いています「ポチ,ウィーン」といった感じ。「ポチ」と「ウィーン」すら順番ではないくらい視覚的には同時発生的ですよね。
だからと言って、文字を重ねてしまったら読めないし発音できないし理解できません。うごきを文字に起こしたときのジレンマです。
そもそも、人間の目には「ボタンを押したらアームがうごく」しかわかりません。知識がなければその中の構造もわかりませんし、わかる必要もありません。ですから、その中の構造や専門的知識を伝えるためには、かなり難解な言語を上手に組み合わせて伝える必要があり、それは大変なことです。ですから、先生は結局必要でなはいと思われる部分(それを言わなくても概要は伝わるであろう部分/そこまで説明してしまうとかえって複雑化しすぎて理解してもらえないであろう部分)を意図的にカットしたり、場合によっては主要部分だけを端的に伝えることが往々にしてあり、それは時と場合、先生の性格などでも大きく変わっていきます。
そして、生徒さんの中には、クローズアップされた(先生が強調した、生徒さんが強調して受け止めた)対象(体の部分、器官)だけをうごかそうとしたり変化させようとしてしまうことがあり、結果が伴わず「わからない!」「難しい!」となることが多々あるのですが、実際はそこまで難解なことはしていないのです。
《結論から入る》
では具体的にどうすればよいでしょうか。
一番大切なことは、
「結論から入る」
ということです。
筋肉や関節など体の部分的な状態がどうであれ、結果的な「かたち」を視覚的に覚えて単純にマネしてしてみます。もしくは、そうなった結果をマネします。
レッスンではハイノートの出し方に悩む生徒さんが沢山いらっしゃいます。ハイノートは「舌」や「アゴ」などを使って空気の流れを変化させることが必要な場合が多々あり、それがうまくできないので結果が伴わない場合が非常に多いのです。
そうなると、どうして舌やアゴについて説明することになるのですが、そればかりがクローズアップされてしまうと、「舌をうごかした結果」を忘れてしまいがちです。
大切なのは舌をうごかすことではなく、その結果です。
このように、細かいことをいくつも考えたり意識しすぎると、「結果、何をしようとしているのか」「それをすることで何が起こる(変化する)のか」を見失いがちですから、先生が求めている音色をイメージし、追求するとか、先生の吹いている演奏(表現)をマネしてみるなど、結果や視覚的なものから入ることは大切です。
先生の見た目から情報を盗みだしたり、音(耳)で確認したり、逆にこちらから質問してみること(両者が同じ認識だったのに使っている単語や言い回しだけが違う場合も多々ありますので敢えて言語は言語で確認すること)も方法のひとつでしょう。
《感覚を言語化している》
僕のレッスンで生徒さんへ伝えているアドバイスや奏法はすべて自分で研究し、蓄積してきた結果です。自分が習ってきたことの根拠の定まっていない受け売りや、拾ってきたあやふやな情報の伝言ゲームではありません。
これまでに(これからも)奏法に関しては様々な方法を実験し、それがどのような結果になるのかをたくさん経験しています。その中で「これだ!」という方法をいくつもストックしているような状態です。
そして「これだ!」と思って使っている奏法は、まだその時点では単なる感覚的なことにすぎず、具体性がありません。そのため、ブログに掲載したり、教本に書いたり、レッスンで伝えるために「言語化」する作業が必要になります。奏法の翻訳みたいなものです。
どう伝えれば誤解されずにみなさんに伝わるか、自分なりによく考えているつもりですが、やはり前述のUFOキャッチャー同様、言語には順序があり、そしてすべてのことをこと細かく言語化できない(しかし、細かくすればどんどんややこしくなるのでしないほうが良い)ので、生徒さんと意思疎通がうまくいかない場合がどうしても出てきます。
しかも持っているボキャブラリーや、使用頻度の高い単語、それぞれの物体に対する言葉の選択が、生活環境によって違うのですから、これはしかたのないことです。
そこでみなさんに知ってほしいのは、こういった奏法などを言葉や文字で伝えているのは、「すでに決定してある機能」を使うための家電製品の取扱説明書のようなものではなく、具体性がないからだの様々な部分が機能した結果の「いいねこの奏法!」を後から言葉にしているにすぎない、という点です。
文字や言葉から受け取った情報だけを実践しても同じ結果が得られないのはこのためです。
《1回のアドバイスは完璧な情報ではない》
ではレッスンなどで受けた奏法面でのアドバイス、どのように受け止めればよいのでしょうか。
アドバイスというのは、『良い奏法を身につけるための「方向性」を教えてくれる漠然としたもの』程度に捉えましょう。
例えるなら、道を尋ねて「右に行きなさい」と言われた程度です。目的地にたどり着くには、道や角はいくつあり、どんな建物や信号があって、どの程度の距離があるか、そういった詳細な情報は含まれておらず、「右」という情報を元に自分の足で進まなければならりません。
しかし、同時に「左ではない」という情報をもらえただけでも歩き回る範囲は半減しているわけですから、教わっておいて良かったのです。
自分で歩いて、調べて、ときには行き止まりに直面してを繰り返し、最終的に目的地に到着します。そのとき、「右というのはこういうことだったのか」とわかるのです。
音楽でも、先生によってアドバイス量や細かさが違ったり、歩いている最中でも沢山アドバイスをくれるひと、そうではない人、いろいろいます。
しかし、悪い方向に行かないように言葉をなげかけてくれることには変わりありません。
ということで、今回は先生からもらうアドバイスをどう受け止めるのか、上達するために自身で何を心がけるか、について書きました。
言われた通りのことをやってる(と思い込み)、結果が伴わなくて「あの先生の言ってることわからない!」とか「先生に言われた通りやってるのに上手くならない!」とか「教わったことをまじめにやってる(本当はやってない/できていない)のに全然上達しない」と思っている方、先生からの情報を元に、自分の努力で研究、実験、結果を求めていますか?それがなければいくら先生に習っても残念ですが上達はほとんどしないのです!
ということで、また来週!
みなさんはレッスンなど、これまでにトランペットを誰か(本なども含む)に教わった経験が一度くらいはあると思います。
特に奏法面について話題になったとき、言われた通りやっているのに結果が伴わなかったり、何だかしっくりこない、場合によっては「それは違う」と指摘され、「言われた通りやってるじゃん!」なんて思ったり、そんな経験はありませんか?
なぜこのようなことが起こるか。それは
「奏法を言語化しているから」
要するに「言葉で伝えている」ということです。
《レッスンとは》
レッスン(教わる)とは、
・先生の生演奏を目の前で独り占めできる
・自分が持っていない表現方法や奏法について教えてもらえる
・自分の演奏や奏法について指摘をしてくれる(認められたり修正してくれる)
このような、いわばかゆいところに手が届く時間です。
そしてそのレッスンでは必ず「言葉」が使われます。
しかし、音楽において、とくに奏法について言葉を用いるのはとても難しいことであり、上手く伝達し合えていないことが多々あるのです。
《結果は同じでも》
例えば、以下の言葉を先生が言ったとしましょう。あなたはどのような印象を受けますか?
1.顎関節(がくかんせつ)を使う
2.口腔内(口の中)の容積が大きくなる
3.上下の歯が遠のく
4.「オ」と発音する
いかがでしょうか。これらすべての表現が、簡単に言えば「口を開ける」と捉えることができます。
言葉による表現はこんなにも変えることができてしまうのです。
アドバイスをするとき、先生は生徒さんに一番意識してほしいからだの部分(話題の中心)をまっさきに口に出してしまうのはよくあることです。よって、結果的に同じうごきであっても、状況によって単語のチョイスを変えてくる可能性は充分にあります。
しかし、これは教わる側にとって困惑する要因です。
どうしても強調された単語を教わる側としてはクローズアップして捉えてしまい、人によっては本来人間の持っている自然なうごきができなくなる場合があるからです。
《言葉には順序がある》
ここで、ゲームセンターなどにあるUFOキャッチャー、あの動作の一部分を言語化してみます。
『ボタンが押されると、電気信号によってアームのワイヤーが反応し、左右に移動する』
専門家ではないので細かなところはご容赦願いたいのですが、このように言葉で解説すると必ず順番に並べる必要が出てきます。
ボタン→押す→電気が流れ→アームのワイヤーが→反応したら→左に→もしくは右に→移動する
実際に我々が目にしているUFOキャッチャーの動きは、このようにひとつずつ順番に行われるというよりも、すべてが同時に反応し、動いています「ポチ,ウィーン」といった感じ。「ポチ」と「ウィーン」すら順番ではないくらい視覚的には同時発生的ですよね。
だからと言って、文字を重ねてしまったら読めないし発音できないし理解できません。うごきを文字に起こしたときのジレンマです。
そもそも、人間の目には「ボタンを押したらアームがうごく」しかわかりません。知識がなければその中の構造もわかりませんし、わかる必要もありません。ですから、その中の構造や専門的知識を伝えるためには、かなり難解な言語を上手に組み合わせて伝える必要があり、それは大変なことです。ですから、先生は結局必要でなはいと思われる部分(それを言わなくても概要は伝わるであろう部分/そこまで説明してしまうとかえって複雑化しすぎて理解してもらえないであろう部分)を意図的にカットしたり、場合によっては主要部分だけを端的に伝えることが往々にしてあり、それは時と場合、先生の性格などでも大きく変わっていきます。
そして、生徒さんの中には、クローズアップされた(先生が強調した、生徒さんが強調して受け止めた)対象(体の部分、器官)だけをうごかそうとしたり変化させようとしてしまうことがあり、結果が伴わず「わからない!」「難しい!」となることが多々あるのですが、実際はそこまで難解なことはしていないのです。
《結論から入る》
では具体的にどうすればよいでしょうか。
一番大切なことは、
「結論から入る」
ということです。
筋肉や関節など体の部分的な状態がどうであれ、結果的な「かたち」を視覚的に覚えて単純にマネしてしてみます。もしくは、そうなった結果をマネします。
レッスンではハイノートの出し方に悩む生徒さんが沢山いらっしゃいます。ハイノートは「舌」や「アゴ」などを使って空気の流れを変化させることが必要な場合が多々あり、それがうまくできないので結果が伴わない場合が非常に多いのです。
そうなると、どうして舌やアゴについて説明することになるのですが、そればかりがクローズアップされてしまうと、「舌をうごかした結果」を忘れてしまいがちです。
大切なのは舌をうごかすことではなく、その結果です。
このように、細かいことをいくつも考えたり意識しすぎると、「結果、何をしようとしているのか」「それをすることで何が起こる(変化する)のか」を見失いがちですから、先生が求めている音色をイメージし、追求するとか、先生の吹いている演奏(表現)をマネしてみるなど、結果や視覚的なものから入ることは大切です。
先生の見た目から情報を盗みだしたり、音(耳)で確認したり、逆にこちらから質問してみること(両者が同じ認識だったのに使っている単語や言い回しだけが違う場合も多々ありますので敢えて言語は言語で確認すること)も方法のひとつでしょう。
《感覚を言語化している》
僕のレッスンで生徒さんへ伝えているアドバイスや奏法はすべて自分で研究し、蓄積してきた結果です。自分が習ってきたことの根拠の定まっていない受け売りや、拾ってきたあやふやな情報の伝言ゲームではありません。
これまでに(これからも)奏法に関しては様々な方法を実験し、それがどのような結果になるのかをたくさん経験しています。その中で「これだ!」という方法をいくつもストックしているような状態です。
そして「これだ!」と思って使っている奏法は、まだその時点では単なる感覚的なことにすぎず、具体性がありません。そのため、ブログに掲載したり、教本に書いたり、レッスンで伝えるために「言語化」する作業が必要になります。奏法の翻訳みたいなものです。
どう伝えれば誤解されずにみなさんに伝わるか、自分なりによく考えているつもりですが、やはり前述のUFOキャッチャー同様、言語には順序があり、そしてすべてのことをこと細かく言語化できない(しかし、細かくすればどんどんややこしくなるのでしないほうが良い)ので、生徒さんと意思疎通がうまくいかない場合がどうしても出てきます。
しかも持っているボキャブラリーや、使用頻度の高い単語、それぞれの物体に対する言葉の選択が、生活環境によって違うのですから、これはしかたのないことです。
そこでみなさんに知ってほしいのは、こういった奏法などを言葉や文字で伝えているのは、「すでに決定してある機能」を使うための家電製品の取扱説明書のようなものではなく、具体性がないからだの様々な部分が機能した結果の「いいねこの奏法!」を後から言葉にしているにすぎない、という点です。
文字や言葉から受け取った情報だけを実践しても同じ結果が得られないのはこのためです。
《1回のアドバイスは完璧な情報ではない》
ではレッスンなどで受けた奏法面でのアドバイス、どのように受け止めればよいのでしょうか。
アドバイスというのは、『良い奏法を身につけるための「方向性」を教えてくれる漠然としたもの』程度に捉えましょう。
例えるなら、道を尋ねて「右に行きなさい」と言われた程度です。目的地にたどり着くには、道や角はいくつあり、どんな建物や信号があって、どの程度の距離があるか、そういった詳細な情報は含まれておらず、「右」という情報を元に自分の足で進まなければならりません。
しかし、同時に「左ではない」という情報をもらえただけでも歩き回る範囲は半減しているわけですから、教わっておいて良かったのです。
自分で歩いて、調べて、ときには行き止まりに直面してを繰り返し、最終的に目的地に到着します。そのとき、「右というのはこういうことだったのか」とわかるのです。
音楽でも、先生によってアドバイス量や細かさが違ったり、歩いている最中でも沢山アドバイスをくれるひと、そうではない人、いろいろいます。
しかし、悪い方向に行かないように言葉をなげかけてくれることには変わりありません。
ということで、今回は先生からもらうアドバイスをどう受け止めるのか、上達するために自身で何を心がけるか、について書きました。
言われた通りのことをやってる(と思い込み)、結果が伴わなくて「あの先生の言ってることわからない!」とか「先生に言われた通りやってるのに上手くならない!」とか「教わったことをまじめにやってる(本当はやってない/できていない)のに全然上達しない」と思っている方、先生からの情報を元に、自分の努力で研究、実験、結果を求めていますか?それがなければいくら先生に習っても残念ですが上達はほとんどしないのです!
ということで、また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
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2017.01.10 Tuesday
失敗と成功
みなさんこんにちは!
先日どこで見たのか忘れてしまったのですが、こんな言葉を目にしました。
「得意なことをすればいい。無理に苦手なことをする必要はない」
実は、この言葉に結構救われたんです。もうだいぶ経ちますが昨年の秋にリサイタルをしまして、そのときの選曲について考えていたときです。
クラシック音楽のリサイタルというと、どうしてもアカデミックなものや、超絶技巧を誇示するような作品をメインに取り入れて「ドヤァ」とかやってるイメージが強くて、自分もそういうのやらなきゃダメなのかなぁ、音大の試験みたいで楽しくないな、聴いてくださる方もつまらいんじゃないかなあ、と感じていたんですね。
クラシック音楽ってよく「わからない」「むずかしい」「つまらない」「じっとしてなきゃいけない」「咳もできない」「オギョーギよくしてなきゃいけない」といったネガティブな言葉を耳にしますよね。実際にそういうのが浮かんできている方が、リサイタルに来てくださって「ああ、やっぱりクラシックって…」とがっかりされてしまうのだけは避けたかったんです。本当は聴きやすくて楽しい作品だって沢山あるのに。
そんなときにこの言葉を見て、ああそうか、自分が得意とすることを聴いてもらえばいいんだ、と我に返った感じがしました。
自分が得意なことをおもいきり表現して、それをお客さんに喜んでもらえたら、と。
その中に、トランペットってこんな楽器なんですよ、とか、クラシック音楽ってこんな曲もあるんですよ、的なものも挟んでいこうと。
おかげで自分としては楽しいコンサートができたわけですが、ただ、この言葉、良い面もそうでない面も持ち合わせているように感じたんです。
《人生はチャレンジの連続》
前回、前々回と、「苦手を克服する方法」と題して記事を書きました。
何かにチャレンジするということは、自分にとって未知なものと対峙することでもあります。
新しいことをするとき、今までとったことのない行動をとるとき、それらはすべて未経験なことに対するチャレンジです。
そのチャレンジを重ねていくことで、人間は成長します。
言い換えるなら、いくつものチャレンジを重ねた結果が今の自分です。
そしてチャレンジには「成功」と「失敗」いずれかの結果があります。
《成功と失敗は表裏一体》
一般的に成功は良いもので、失敗は良くないものと捉える傾向にあります。
もちろん、きめなければならないとき、きめてほしいと願うとき、そんな瞬間が訪れることが生きていく中で何度となく訪れます。
しかし、成功も失敗も「チャレンジを積み重ねていく」という点では、どちらも貴重な経験であると考えます。
成功を経験すると、人は自信を持つことができます。そういった点で成長します。
失敗を経験すると、人は手段の選択肢を知ることになります。そういった点で成長します。
一度失敗したことは経験となり、「これをしてしまうと失敗する(願わなかった結果へ向かっていきやすい)」と危険回避につながるわけで、むしろこの経験の積み重ねがあることで成功へのルートを絞り込むことができ、成功率が上がってくるのではないか、と思うのです。
そういった点で言えば成功も失敗も同じように表裏一体、プラス要素として捉えることができるのです。
《「なぜ失敗したのか」を追求する》
成功と失敗は、音楽でも常につきまとわれます。
先程の話の通り、演奏で失敗をしても、「それが経験できてラッキーだった」と思って欲しいのです。
特に合奏練習やレッスンを含めた練習時にはそれを強く持っておきたいものです。本番失敗しないためにも。
しかし、どうしても反射的に失敗すると「しまった!」と焦ったり(ミス=悪の発想)、バツが悪そうな顔をしたり(ミス=悪の発想)、首をかしげたり(言い訳)、なかったことにしようと何度も吹いてみようとする(言い訳)と、失敗はプラス要素にすることはできません。
失敗を正面から受け入れ、冷静になって考えます。
「なぜ失敗したのか」
追求した先にたどり着いた原因は仮説でも構いません。考えられるあらゆる原因を探っていき、それを再度試してみるのです。
そうしていくうちに具体的な原因が見えてくると思います。
原因がわかれば、それをしないように心がけていく方向にルートが定まってくるので、成功する可能性が上がります。
練習というのはこの積み重ねをする時間でもあります。
《「苦手」と簡単に呼んではいけません》
そこで最初の話に戻ります。
「得意なことをすればいい。無理に苦手なことをする必要はない」
この言葉をどのように捉えますか?
「苦手」は、深く追求した結果わかることです。
適当に経験しただけ判断することではありません。とことんやって、失敗を繰り返した結果です。
そして成功もある程度経験する必要があります。失敗を重ねただけで「苦手」というのは、失敗が嫌だったという感情であって、苦手とは呼べません。
食わず嫌いや、精神的にやりたくない、面倒くさいというのも苦手なことではありません。やってもいないのに苦手とは呼べません。
そうやって様々な経験を重ねていった結果、自然と見えてきたものが「苦手」そして「得意」なんだと思います。
《周りとの評価の差異》
また、自分の中で感じている得意、苦手と、周りからの評価は決して同じではありません。
自分ではあまり自信がないことだったのに、高評価を得た経験はありませんか?
僕はそればかりです。
あまり得意だと自分では思っていなかったことが、高い評価を得て、それが仕事になっているものがいくつかあります。
僕の場合、仕事につながっていることは、趣味で始めた事だったり好きでやっていることなのでありがたいのですが、人によっては気が進まないとか、無関心なものが高評価につながったりします。
ですから、自分が得意なものを見つけることも大切ですが、周りから評価してくれるものを見つけられることもとても大切です。
そのためには、食わず嫌いや面倒くさいとか、失敗したらどうしよう、なんて思っていては宝の持ち腐れになる可能性がありあす。そんなのもったいなさすぎです。
何でもとにかくやってみて、とことんまで掘り下げてみてください。自分の中の感情だけで完結して、先読みした気になってはいけません。誰かにアピールして評価してもらうところまでやってください。それも一度では足りません。
《成功のレールはその先に危険が伴う》
親は子どもの失敗して辛い気持ちになっている姿を見たくないのはわかりますが、だからといって、「将来のため」「あなたのため」という言葉の連呼で一流大学、一流企業に就職してもらう(させる)ために保育園幼稚園からお受験お受験で成功のレールばかりを親御さんがどんどん敷き詰めて、無理矢理乗せて進ませてしまうと、失敗する経験がまったくないまま大人へと成長してしまいます。
受験が悪いというわけでは毛頭なく、どんな言動が失敗を導き、そしてどんな経験を積むことでそれらを解決させられるかを知らずにヒトとして成長をするのは非常に危険だと思うのです。
そもそも、レールを敷いている親はいつまでそのレールを敷いていけるのでしょうか。子どもが自分でレールを敷こう、敷けるようにとした瞬間、「チャレンジ」が訪れるのです。その突然のチャレンジには前述のように「成功」と「失敗」が絶対に待ち構えています。
それまで失敗する経験がなかった(もう成長しきった)子どもは、いったいそのときどうなるのでしょうか。
「あなたのため」「将来のため」という言葉は、その裏に「親のエゴ」がぴったりくっついています。
ちなみに「○○離れ」が増えてきている(と言われている)のも、この「失敗」を経験することが少なくなってきているからでははないか、とも思うのです。
とりあえずやってみる前に情報があるので、「ああ、じゃあいいや」みたいになりやすいのでは、と。
ともかく、苦手も得意も経験を積み重ねた結果でなので、何でもチャレンジするのみです。
その先に「認められる」という嬉しいご褒美が待っています。
ということで今週はここまで。
また来週!
先日どこで見たのか忘れてしまったのですが、こんな言葉を目にしました。
「得意なことをすればいい。無理に苦手なことをする必要はない」
実は、この言葉に結構救われたんです。もうだいぶ経ちますが昨年の秋にリサイタルをしまして、そのときの選曲について考えていたときです。
クラシック音楽のリサイタルというと、どうしてもアカデミックなものや、超絶技巧を誇示するような作品をメインに取り入れて「ドヤァ」とかやってるイメージが強くて、自分もそういうのやらなきゃダメなのかなぁ、音大の試験みたいで楽しくないな、聴いてくださる方もつまらいんじゃないかなあ、と感じていたんですね。
クラシック音楽ってよく「わからない」「むずかしい」「つまらない」「じっとしてなきゃいけない」「咳もできない」「オギョーギよくしてなきゃいけない」といったネガティブな言葉を耳にしますよね。実際にそういうのが浮かんできている方が、リサイタルに来てくださって「ああ、やっぱりクラシックって…」とがっかりされてしまうのだけは避けたかったんです。本当は聴きやすくて楽しい作品だって沢山あるのに。
そんなときにこの言葉を見て、ああそうか、自分が得意とすることを聴いてもらえばいいんだ、と我に返った感じがしました。
自分が得意なことをおもいきり表現して、それをお客さんに喜んでもらえたら、と。
その中に、トランペットってこんな楽器なんですよ、とか、クラシック音楽ってこんな曲もあるんですよ、的なものも挟んでいこうと。
おかげで自分としては楽しいコンサートができたわけですが、ただ、この言葉、良い面もそうでない面も持ち合わせているように感じたんです。
《人生はチャレンジの連続》
前回、前々回と、「苦手を克服する方法」と題して記事を書きました。
何かにチャレンジするということは、自分にとって未知なものと対峙することでもあります。
新しいことをするとき、今までとったことのない行動をとるとき、それらはすべて未経験なことに対するチャレンジです。
そのチャレンジを重ねていくことで、人間は成長します。
言い換えるなら、いくつものチャレンジを重ねた結果が今の自分です。
そしてチャレンジには「成功」と「失敗」いずれかの結果があります。
《成功と失敗は表裏一体》
一般的に成功は良いもので、失敗は良くないものと捉える傾向にあります。
もちろん、きめなければならないとき、きめてほしいと願うとき、そんな瞬間が訪れることが生きていく中で何度となく訪れます。
しかし、成功も失敗も「チャレンジを積み重ねていく」という点では、どちらも貴重な経験であると考えます。
成功を経験すると、人は自信を持つことができます。そういった点で成長します。
失敗を経験すると、人は手段の選択肢を知ることになります。そういった点で成長します。
一度失敗したことは経験となり、「これをしてしまうと失敗する(願わなかった結果へ向かっていきやすい)」と危険回避につながるわけで、むしろこの経験の積み重ねがあることで成功へのルートを絞り込むことができ、成功率が上がってくるのではないか、と思うのです。
そういった点で言えば成功も失敗も同じように表裏一体、プラス要素として捉えることができるのです。
《「なぜ失敗したのか」を追求する》
成功と失敗は、音楽でも常につきまとわれます。
先程の話の通り、演奏で失敗をしても、「それが経験できてラッキーだった」と思って欲しいのです。
特に合奏練習やレッスンを含めた練習時にはそれを強く持っておきたいものです。本番失敗しないためにも。
しかし、どうしても反射的に失敗すると「しまった!」と焦ったり(ミス=悪の発想)、バツが悪そうな顔をしたり(ミス=悪の発想)、首をかしげたり(言い訳)、なかったことにしようと何度も吹いてみようとする(言い訳)と、失敗はプラス要素にすることはできません。
失敗を正面から受け入れ、冷静になって考えます。
「なぜ失敗したのか」
追求した先にたどり着いた原因は仮説でも構いません。考えられるあらゆる原因を探っていき、それを再度試してみるのです。
そうしていくうちに具体的な原因が見えてくると思います。
原因がわかれば、それをしないように心がけていく方向にルートが定まってくるので、成功する可能性が上がります。
練習というのはこの積み重ねをする時間でもあります。
《「苦手」と簡単に呼んではいけません》
そこで最初の話に戻ります。
「得意なことをすればいい。無理に苦手なことをする必要はない」
この言葉をどのように捉えますか?
「苦手」は、深く追求した結果わかることです。
適当に経験しただけ判断することではありません。とことんやって、失敗を繰り返した結果です。
そして成功もある程度経験する必要があります。失敗を重ねただけで「苦手」というのは、失敗が嫌だったという感情であって、苦手とは呼べません。
食わず嫌いや、精神的にやりたくない、面倒くさいというのも苦手なことではありません。やってもいないのに苦手とは呼べません。
そうやって様々な経験を重ねていった結果、自然と見えてきたものが「苦手」そして「得意」なんだと思います。
《周りとの評価の差異》
また、自分の中で感じている得意、苦手と、周りからの評価は決して同じではありません。
自分ではあまり自信がないことだったのに、高評価を得た経験はありませんか?
僕はそればかりです。
あまり得意だと自分では思っていなかったことが、高い評価を得て、それが仕事になっているものがいくつかあります。
僕の場合、仕事につながっていることは、趣味で始めた事だったり好きでやっていることなのでありがたいのですが、人によっては気が進まないとか、無関心なものが高評価につながったりします。
ですから、自分が得意なものを見つけることも大切ですが、周りから評価してくれるものを見つけられることもとても大切です。
そのためには、食わず嫌いや面倒くさいとか、失敗したらどうしよう、なんて思っていては宝の持ち腐れになる可能性がありあす。そんなのもったいなさすぎです。
何でもとにかくやってみて、とことんまで掘り下げてみてください。自分の中の感情だけで完結して、先読みした気になってはいけません。誰かにアピールして評価してもらうところまでやってください。それも一度では足りません。
《成功のレールはその先に危険が伴う》
親は子どもの失敗して辛い気持ちになっている姿を見たくないのはわかりますが、だからといって、「将来のため」「あなたのため」という言葉の連呼で一流大学、一流企業に就職してもらう(させる)ために保育園幼稚園からお受験お受験で成功のレールばかりを親御さんがどんどん敷き詰めて、無理矢理乗せて進ませてしまうと、失敗する経験がまったくないまま大人へと成長してしまいます。
受験が悪いというわけでは毛頭なく、どんな言動が失敗を導き、そしてどんな経験を積むことでそれらを解決させられるかを知らずにヒトとして成長をするのは非常に危険だと思うのです。
そもそも、レールを敷いている親はいつまでそのレールを敷いていけるのでしょうか。子どもが自分でレールを敷こう、敷けるようにとした瞬間、「チャレンジ」が訪れるのです。その突然のチャレンジには前述のように「成功」と「失敗」が絶対に待ち構えています。
それまで失敗する経験がなかった(もう成長しきった)子どもは、いったいそのときどうなるのでしょうか。
「あなたのため」「将来のため」という言葉は、その裏に「親のエゴ」がぴったりくっついています。
ちなみに「○○離れ」が増えてきている(と言われている)のも、この「失敗」を経験することが少なくなってきているからでははないか、とも思うのです。
とりあえずやってみる前に情報があるので、「ああ、じゃあいいや」みたいになりやすいのでは、と。
ともかく、苦手も得意も経験を積み重ねた結果でなので、何でもチャレンジするのみです。
その先に「認められる」という嬉しいご褒美が待っています。
ということで今週はここまで。
また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
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2017.01.03 Tuesday
苦手を克服する方法 2(解決編)
みなさんこんにちは!
さて、前回はなぜ苦手が克服できないのか、そしてウォームアップと基礎練習の明確な区分について解説しました。
今回は具体的に苦手を克服するための方法例を挙げてみます。
先週の記事を合わせて読んでいただきたいので、まだご覧になっていない方はこちらからどうぞ。
《まずはウォームアップ》
では早速、具体的にできないことを克服するためにはどうすれば良いか、考えてみましょう。
まずはウォームアップです。
ウォームアップは「楽器を吹くための超基礎を確認し、可能な限り負担のない方法を身につける(確認する/思い出す)」という目的も持っています。かかとを踏んだ革靴で「フルマラソン完走するぞ!練習だ!」と言っている人がどのような結末をむかえるか、容易に想像できますね。楽器を出していきなり目的の練習を根拠もなく始めても意味がないどころか結果としてマイナスになります。
音を出すためのアパチュアやその周辺の的確なセッティング、音のツボに当たるための口の中の状態や空気圧、呼吸に関する知識とうごき、タンギング原理とクオリティ、音域変化を柔軟にするための方法の確認。このような、演奏するための原点をウォームアップの時間に確認します。
実はこれがきちんとできていると、意外になんでも軽やかにできてしまったりもするものです(さらなるクオリティの向上は必要ですが)。
ということは、逆に考えると、無意識のうちに革靴でフルマラソンに挑戦している方がかなりいらっしゃるということです!
あなたはいかがですか?
《効率良く克服する方法》
問題が解決しにくいもうひとつの大きな問題は、物理的に「練習時間が長く取れない」ことです。
「わかっているけど、時間がなくて」
そうですよね。お仕事やお勉強が最優先なのは当然です。そんな生徒さんが僕のクラスにもたくさんいらっしゃいます。
そこで、時間がない中でどうやって実力というフィールドを広げるかを考えてみましょう。
[苦手なことをリストアップする]
自分がどんなことが苦手か(できないか)を具体的にリストアップしてみましょう。
これまでに吹いてきた楽譜を出してきて、思い出してみてください。
「あー、ここ何度やってもできなかったな」
「この場面が来るとすごい緊張してたな」
「指揮者にいつも指摘されてたな」
「こういうの苦手だな」
「ここ、今でも自信ないな」
そういった箇所をたくさん見つけてください。そして、それらの共通点を見つけます。音域はどから苦手意識を持っているのか、速いパッセージはどうか、他にもスラーだったらどんなスラーが苦手なのかなど、できる限り具体的にします。
これから克服するためのリスト作りです。
[正しい知識を身につける]
全部いっぺんに克服するのは難しいので、ひとつずつ、少しずつ解消していきます。
そのために必要なのが「理論的な解決策」と「練習方法」です。
例えばダブルタンギングを克服しようとしたとき、やみくもに「よし練習だ!」とタッタカタッタカ頑張って舌を動かそうとしても解決しません。
まずはタブルタンギングの仕組みを理論的に理解するのです。この場合信頼のおける奏者に習うのが一番的確で一番早いのですが、本やネットなどで研究することもできます。この時間は、楽器の練習時間でなくともできることです。むしろ情報収集は楽器を持っていない時間に行ったほうが効率的ですね。移動中の電車の中とか、お仕事から帰宅してからとか、夜中などでもできます。
[楽器がなくても練習はできる]
ダブルタンギングの仕組みがわかれば、それを実践します。もちろんトランペットを吹きながらそれを確認できればベストですが、楽器がなくてもできることもあります。なぜなら、タンギングは単なる「発音」であり、トランペットで吹いたときにどう反応するか、というだけなので、自分のからだの使い方に過ぎないのです。したがって家でも、外出先でも、寝起きでも寝る前でも研究と実践はやろうと思えばいつでもできます。
むしろダブルタンギングを行うための基礎をまずからだで確認してから、楽器で挑戦したほうが余計なことを考えずに実験できるので効率的かもしれません。
[ウォームアップに組み込む]
そして、週末。所属している団体の練習場、思い切り吹ける環境の中でダブルタンギングの練習をします。
しかし、団体によってはイスと打楽器の準備が整うとすぐさま合奏!のような過酷な環境のところもあると聞きます。
そうなると自分の練習などまったくできませんね。
ウォームアップだけはなんとか上手に時間と場所を確保して行っておきたいところです。例えばウォームアップは人間の話し声程度の音量がベストなウォームアップメニューも多いので、家の中で軽く吹いてみる、なんてこともできるのではと思うのです(環境や時間帯にもよりますが)。
カラオケボックスで音出ししてから練習会場に行くとか。
そしてここからがフィールドを広げる方法です。ウォームアップメニューに「タンギング」を加えてしまうのです。
これまでの話と矛盾しているかのようですが、練習時間が確保できないのであればここに組み込むことが一番効率的です。
しかし、本気の基礎練習のように一生懸命徹底的に行うのではなく、いつも同じウォームアップメニューに期間限定追加メニューとして、ダブルタンギングを組み込むのです。
例えばロングトーンをする中で舌がどのようにうごくとダブルになるのか、負担なくダブルを続けるためにはどうするのか、を意識して、ベストな状態を見つけることを目的とします。その場でできるとかできないということよりも、ウォームアップに組み込むことで理論的な面から負担のない正しいダブルタンギングを「習慣」として持ち、身につけてしまうのです。
その理論的技術や方法はここでは書きませんが、正しい知識があれば、あとはそれをうごきとして確認するだけで本来はできることなので、ダブルタンギングに関しては、習得までそれほど時間がかかることでもないと思います。
したがって、ウォームアップの範疇でも充分克服できることなんですね。
その他の技術的なことの多くも、実はそれほど特殊なことがあるわけでもなく、理論がしっかりしていればできることのほうが圧倒的に多いのです。
[時間があるときは]
お仕事で毎日忙しい方も、自由な時間ができた時には、レッスンを受けたり、講習会に参加したり、じっくり個人練習をすることで、少しずつ、しかし確実にフィールドが広くなります。
そしてダブルタンギングのクオリティが上がってくると、同じ原理の「トリプルタンギング」も自然にできるようになっていきます。
このように最初にリストアップしたたくさんの苦手なことも、まるでジグソーパズルを組み立てるかのように知らないうちにできるようになっていたり、クオリティが上がっていることもよくあることです。努力をしてきたご褒美みたいなものでしょうか。
ということで今回は「苦手を克服する方法」について書いてみました。
やはりレッスンを受けることが一番効率的で間違いがありません。
僕はレッスンや教本で、できる限りみなさんに的確なアドバイスをするようなレッスンを心がけています。
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また、ウォームアップに関して徹底的に書いた「トランペットウォームアップ本」もぜひ参考にしてください。
それでは、また来週!
さて、前回はなぜ苦手が克服できないのか、そしてウォームアップと基礎練習の明確な区分について解説しました。
今回は具体的に苦手を克服するための方法例を挙げてみます。
先週の記事を合わせて読んでいただきたいので、まだご覧になっていない方はこちらからどうぞ。
《まずはウォームアップ》
では早速、具体的にできないことを克服するためにはどうすれば良いか、考えてみましょう。
まずはウォームアップです。
ウォームアップは「楽器を吹くための超基礎を確認し、可能な限り負担のない方法を身につける(確認する/思い出す)」という目的も持っています。かかとを踏んだ革靴で「フルマラソン完走するぞ!練習だ!」と言っている人がどのような結末をむかえるか、容易に想像できますね。楽器を出していきなり目的の練習を根拠もなく始めても意味がないどころか結果としてマイナスになります。
音を出すためのアパチュアやその周辺の的確なセッティング、音のツボに当たるための口の中の状態や空気圧、呼吸に関する知識とうごき、タンギング原理とクオリティ、音域変化を柔軟にするための方法の確認。このような、演奏するための原点をウォームアップの時間に確認します。
実はこれがきちんとできていると、意外になんでも軽やかにできてしまったりもするものです(さらなるクオリティの向上は必要ですが)。
ということは、逆に考えると、無意識のうちに革靴でフルマラソンに挑戦している方がかなりいらっしゃるということです!
あなたはいかがですか?
《効率良く克服する方法》
問題が解決しにくいもうひとつの大きな問題は、物理的に「練習時間が長く取れない」ことです。
「わかっているけど、時間がなくて」
そうですよね。お仕事やお勉強が最優先なのは当然です。そんな生徒さんが僕のクラスにもたくさんいらっしゃいます。
そこで、時間がない中でどうやって実力というフィールドを広げるかを考えてみましょう。
[苦手なことをリストアップする]
自分がどんなことが苦手か(できないか)を具体的にリストアップしてみましょう。
これまでに吹いてきた楽譜を出してきて、思い出してみてください。
「あー、ここ何度やってもできなかったな」
「この場面が来るとすごい緊張してたな」
「指揮者にいつも指摘されてたな」
「こういうの苦手だな」
「ここ、今でも自信ないな」
そういった箇所をたくさん見つけてください。そして、それらの共通点を見つけます。音域はどから苦手意識を持っているのか、速いパッセージはどうか、他にもスラーだったらどんなスラーが苦手なのかなど、できる限り具体的にします。
これから克服するためのリスト作りです。
[正しい知識を身につける]
全部いっぺんに克服するのは難しいので、ひとつずつ、少しずつ解消していきます。
そのために必要なのが「理論的な解決策」と「練習方法」です。
例えばダブルタンギングを克服しようとしたとき、やみくもに「よし練習だ!」とタッタカタッタカ頑張って舌を動かそうとしても解決しません。
まずはタブルタンギングの仕組みを理論的に理解するのです。この場合信頼のおける奏者に習うのが一番的確で一番早いのですが、本やネットなどで研究することもできます。この時間は、楽器の練習時間でなくともできることです。むしろ情報収集は楽器を持っていない時間に行ったほうが効率的ですね。移動中の電車の中とか、お仕事から帰宅してからとか、夜中などでもできます。
[楽器がなくても練習はできる]
ダブルタンギングの仕組みがわかれば、それを実践します。もちろんトランペットを吹きながらそれを確認できればベストですが、楽器がなくてもできることもあります。なぜなら、タンギングは単なる「発音」であり、トランペットで吹いたときにどう反応するか、というだけなので、自分のからだの使い方に過ぎないのです。したがって家でも、外出先でも、寝起きでも寝る前でも研究と実践はやろうと思えばいつでもできます。
むしろダブルタンギングを行うための基礎をまずからだで確認してから、楽器で挑戦したほうが余計なことを考えずに実験できるので効率的かもしれません。
[ウォームアップに組み込む]
そして、週末。所属している団体の練習場、思い切り吹ける環境の中でダブルタンギングの練習をします。
しかし、団体によってはイスと打楽器の準備が整うとすぐさま合奏!のような過酷な環境のところもあると聞きます。
そうなると自分の練習などまったくできませんね。
ウォームアップだけはなんとか上手に時間と場所を確保して行っておきたいところです。例えばウォームアップは人間の話し声程度の音量がベストなウォームアップメニューも多いので、家の中で軽く吹いてみる、なんてこともできるのではと思うのです(環境や時間帯にもよりますが)。
カラオケボックスで音出ししてから練習会場に行くとか。
そしてここからがフィールドを広げる方法です。ウォームアップメニューに「タンギング」を加えてしまうのです。
これまでの話と矛盾しているかのようですが、練習時間が確保できないのであればここに組み込むことが一番効率的です。
しかし、本気の基礎練習のように一生懸命徹底的に行うのではなく、いつも同じウォームアップメニューに期間限定追加メニューとして、ダブルタンギングを組み込むのです。
例えばロングトーンをする中で舌がどのようにうごくとダブルになるのか、負担なくダブルを続けるためにはどうするのか、を意識して、ベストな状態を見つけることを目的とします。その場でできるとかできないということよりも、ウォームアップに組み込むことで理論的な面から負担のない正しいダブルタンギングを「習慣」として持ち、身につけてしまうのです。
その理論的技術や方法はここでは書きませんが、正しい知識があれば、あとはそれをうごきとして確認するだけで本来はできることなので、ダブルタンギングに関しては、習得までそれほど時間がかかることでもないと思います。
したがって、ウォームアップの範疇でも充分克服できることなんですね。
その他の技術的なことの多くも、実はそれほど特殊なことがあるわけでもなく、理論がしっかりしていればできることのほうが圧倒的に多いのです。
[時間があるときは]
お仕事で毎日忙しい方も、自由な時間ができた時には、レッスンを受けたり、講習会に参加したり、じっくり個人練習をすることで、少しずつ、しかし確実にフィールドが広くなります。
そしてダブルタンギングのクオリティが上がってくると、同じ原理の「トリプルタンギング」も自然にできるようになっていきます。
このように最初にリストアップしたたくさんの苦手なことも、まるでジグソーパズルを組み立てるかのように知らないうちにできるようになっていたり、クオリティが上がっていることもよくあることです。努力をしてきたご褒美みたいなものでしょうか。
ということで今回は「苦手を克服する方法」について書いてみました。
やはりレッスンを受けることが一番効率的で間違いがありません。
僕はレッスンや教本で、できる限りみなさんに的確なアドバイスをするようなレッスンを心がけています。
ぜひ一度レッスンを受けてみてください。無料体験レッスンも随時受付中です。
詳しくはこちらをご覧ください。
また、ウォームアップに関して徹底的に書いた「トランペットウォームアップ本」もぜひ参考にしてください。
それでは、また来週!
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at 07:54, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方
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