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荻原 明
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2016.08.09 Tuesday
色と音楽 1
合奏はみんなでひとつの作品を完成させることが目的です。
しかし、音楽って明確なゴールがありませんよね。どこがどうなったら完成なのでしょうか。
全員がそれぞれの楽譜に書いてあることを正しく演奏できるようになったら完成、というのでは少し物足りないですし、かと言って追求していったらいつまでも終わりがありません。
今回の記事は、合奏でひとつの「完成」を目指す際、どんなことを意識するとよいか、ひとつの指標を書いていきます。
《水彩画と吹奏楽》
水彩絵具、一度は使ったことがありますよね。
水彩絵具の最大の特徴は、「色を混ぜることによって無限に色を生み出せるところ」にあると思います。
ほんの少し分量が違えばまるで違う色になる興味深さ。音楽における合奏にとても似ているな、と感じます。
ここからは音楽と絵具のお話を混ぜて進めていきます。
音楽の演奏、特に複数で演奏する場合、それぞれの色を合わせることが大切です。この色が好きだから、と各自が好き勝手な色を並べられたら統一感が生まれないどころか、悪い印象を与えるかもしれません。どんなにキレイな絵の具の色でも混ぜすぎると汚くなるのと似ています。
《基準が必要になります》
したがって奏者全員が同じ方向性の色に統一するためには、「基準」が必要です。
その基準はどこにあるのか。オーケストラや吹奏楽ならばそれは「指揮者」の仕事です。
例えば合奏練習のときに指揮者が「この場面は緑色で!」と示したら、全員が緑色を用意します。
しかし、指揮者は赤青黄緑のような単純な色ばかりを明確に示してくるだけではありません。「明るい青色で」「深い赤色で」といった指示がくるかもしれませんし、「秋の夕暮れの空みたいな」「深い森の奥のような」、場合によっては「心の中に眠るの小さな闇のような」といった現象的、詩的、抽象的な言い方をする可能性も考えられます。
こうなると奏者は、指揮者がどのような色をイメージしているのかを考える必要があります。そのあと、自分の力で求められている色を作り出していきます。
自分が生み出そうとしている色を具体的に作り出すためには、何色と何色がどのくらいの割合で配合したらいいのかをあらかじめ知っていることが効率的であり、合奏のような大勢で行う作業時間の場合は周りにも迷惑をかけたくないので必要なことです。
《色の練習》
そのために必要なのが「練習(時間)」です。
たくさんの実験や経験をしておくことで、それが自分の知識、技術になります。指揮者から様々な要求がきても即座に対応したり、時には指揮者が要求した以上の(素晴らしい)ものを生み出すことで強い影響力を持つ奏者になれます。
練習は、楽譜に書いてあることを機械的に正しく再現できるためだけに費やす時間ではなく、自分のイメージする場面や作品に合った様々な色を生み出していく時間でもあります。理想を言えば、後者に時間を充分にかけられる基礎力の高さを持っていたいものです。
絵の具を沢山手に入れて、それらをどの割合で混ぜていくとどんな系統の色になるのかを経験的に知り、出会った作品ごとに自分のイメージにぴったり合った色を置いていく。これだけでもかなり時間のかかることだと思います。
ですから練習することがなく、ヒマになるなんてこと、本当はあり得ないのです。
《色を統一する方法》
統一した色を生み出すための3つの方法を挙げてみます。
指揮者A「この色をみんなに作ってもらいます。配合は、赤0.2g、黄色0.45g、青0.1g」
指揮者B「何度作り直してもいいから、自分で考えてこれと同じ色を作ってみましょう」
指揮者C「なんで俺の作った色がわからない!これだ!この色だ!間違えた色を作ったら音楽室から出ていけ!腹筋一億万回だ!校庭80000周だ!」
みなさんの身近にいる指揮者、指導者はどのタイプですか?
指揮者Aさんのやり方は、とても効率的です。あらかじめどうするか全部教えてくれるので、間違いがありません。ほぼ全員が同じ色を短時間で作れるのでそういった面での完成度は高いです。
しかし、各奏者の個性、あらかじめ用意した(自分がこう思う)色は全否定。なので、こういった指導が続くと奏者は自分から率先して色を作り出そうしなくなります。みんな死んだ魚のような目で「色を作る分量を教えてください」となってしまいます。したがって奏者は音が出せればだれでも良いわけで、その結果、100回演奏したら100回まったく同じ演奏ができてしまう奇妙なロボット集団になります。
吹奏楽コンクール前だけこの方法(この指導方法を熟知している謎の指導者を招聘(笑)する)をとるところも多いです。
指揮者Bさんのやり方は、少し時間がかかりますが、各奏者の個性や想像力を高めるためにはとても良い方法だと思います。一番素晴らしいところは「各自が考える」という点。そうやって生み出してきた色には「味」があります(味覚の味じゃないですよ)。
指揮者Cさんは、数字の桁から勉強し直すと良いと思います。
統一した色を全員で作り上げるのはとても難しいことです。指揮者の望む色を理解して、自分もそれに近づけていく。自分と指揮者だけでなくパート内、隣の楽器、他の遠くにいる楽器とも同じ系統の色にしていくわけですから、いろんなところに目(耳)を向ける必要もあります。誰かに色を作ってもらうのではなく「自分の意思でひとつの色を作り上げる」ということが大切です。
その経験が自分の成長につながっていくのです。
最初から作り方を全部教えてしまうような指導では、何も育ちません。
《色とは何か》
ところでこの「色」とは音楽においては具体的に何を指しているのかわかりますか?
音色や鳴らし方、歌い方(フレーズの感じ方、緩急、ヴィブラートなど)と言った「表現」です。
例えば「海」というキーワードひとつが提示されて色を作る(=自分のイメージする表現を演奏で具体化する)ことになったとします。
「海」と言われてあなたはどんなイメージを持ちますか?
「夏!」
「広い!」
「暑い!」
「砂遊び!」
「スイカ割り!」
「ビーチバレー!」
「海の家!やきそば!」
「ハワイ!」
「ヒャッハー!」
という人が多いかもしれません。系統としては明るくて元気な感じのイメージですね。
しかし、中にはこのようなイメージを持つ人がいるかもしれません。
「荒れ狂う日本海の海」
「サメに襲われる」
「おぼれる」
「崖から転落」
「サスペンスドラマのラストシーン=逮捕」
「嫌い」
「悲しい」
「失恋」
など。深く事情は聞きませんが、「海=明るく楽しい」を連想する人がいる一方、いわばネガティブな発想を持つ人も必ずいる、ということです。
ですから、色を統一するということは、各奏者のイメージをより近いものにしていく作業でもあります。その指標を決めるのが指揮者なのです。指揮者がどう言うかで同じ「海」でも方向性が変わりますし、その指揮者のもとで演奏をするのなら、自分がどんなイメージだったとしても、指揮者の持っているイメージに切り替える必要があるのです。そうしないと方向性が統一された音楽を作ることはできません。
このように音楽を「色」に例えると、新たに見えてくることがたくさんあります。
特に個人練習で、曲をまずはひとりで完成させるにあたって、楽譜に書いてある音の高さやリズムを正確に再現できるようにするだけの時間になってほしくありません。
その作品が活きるために、どんな表現をしたらベストか。それを自分なりに納得のいく形まで作り上げておくのです。
それが最初の合奏までにする演奏者に課せられたものなのです。
次回も色に例えたお話をしていきます。ぜひご覧ください。
それではまた来週!
しかし、音楽って明確なゴールがありませんよね。どこがどうなったら完成なのでしょうか。
全員がそれぞれの楽譜に書いてあることを正しく演奏できるようになったら完成、というのでは少し物足りないですし、かと言って追求していったらいつまでも終わりがありません。
今回の記事は、合奏でひとつの「完成」を目指す際、どんなことを意識するとよいか、ひとつの指標を書いていきます。
《水彩画と吹奏楽》
水彩絵具、一度は使ったことがありますよね。
水彩絵具の最大の特徴は、「色を混ぜることによって無限に色を生み出せるところ」にあると思います。
ほんの少し分量が違えばまるで違う色になる興味深さ。音楽における合奏にとても似ているな、と感じます。
ここからは音楽と絵具のお話を混ぜて進めていきます。
音楽の演奏、特に複数で演奏する場合、それぞれの色を合わせることが大切です。この色が好きだから、と各自が好き勝手な色を並べられたら統一感が生まれないどころか、悪い印象を与えるかもしれません。どんなにキレイな絵の具の色でも混ぜすぎると汚くなるのと似ています。
《基準が必要になります》
したがって奏者全員が同じ方向性の色に統一するためには、「基準」が必要です。
その基準はどこにあるのか。オーケストラや吹奏楽ならばそれは「指揮者」の仕事です。
例えば合奏練習のときに指揮者が「この場面は緑色で!」と示したら、全員が緑色を用意します。
しかし、指揮者は赤青黄緑のような単純な色ばかりを明確に示してくるだけではありません。「明るい青色で」「深い赤色で」といった指示がくるかもしれませんし、「秋の夕暮れの空みたいな」「深い森の奥のような」、場合によっては「心の中に眠るの小さな闇のような」といった現象的、詩的、抽象的な言い方をする可能性も考えられます。
こうなると奏者は、指揮者がどのような色をイメージしているのかを考える必要があります。そのあと、自分の力で求められている色を作り出していきます。
自分が生み出そうとしている色を具体的に作り出すためには、何色と何色がどのくらいの割合で配合したらいいのかをあらかじめ知っていることが効率的であり、合奏のような大勢で行う作業時間の場合は周りにも迷惑をかけたくないので必要なことです。
《色の練習》
そのために必要なのが「練習(時間)」です。
たくさんの実験や経験をしておくことで、それが自分の知識、技術になります。指揮者から様々な要求がきても即座に対応したり、時には指揮者が要求した以上の(素晴らしい)ものを生み出すことで強い影響力を持つ奏者になれます。
練習は、楽譜に書いてあることを機械的に正しく再現できるためだけに費やす時間ではなく、自分のイメージする場面や作品に合った様々な色を生み出していく時間でもあります。理想を言えば、後者に時間を充分にかけられる基礎力の高さを持っていたいものです。
絵の具を沢山手に入れて、それらをどの割合で混ぜていくとどんな系統の色になるのかを経験的に知り、出会った作品ごとに自分のイメージにぴったり合った色を置いていく。これだけでもかなり時間のかかることだと思います。
ですから練習することがなく、ヒマになるなんてこと、本当はあり得ないのです。
《色を統一する方法》
統一した色を生み出すための3つの方法を挙げてみます。
指揮者A「この色をみんなに作ってもらいます。配合は、赤0.2g、黄色0.45g、青0.1g」
指揮者B「何度作り直してもいいから、自分で考えてこれと同じ色を作ってみましょう」
指揮者C「なんで俺の作った色がわからない!これだ!この色だ!間違えた色を作ったら音楽室から出ていけ!腹筋一億万回だ!校庭80000周だ!」
みなさんの身近にいる指揮者、指導者はどのタイプですか?
指揮者Aさんのやり方は、とても効率的です。あらかじめどうするか全部教えてくれるので、間違いがありません。ほぼ全員が同じ色を短時間で作れるのでそういった面での完成度は高いです。
しかし、各奏者の個性、あらかじめ用意した(自分がこう思う)色は全否定。なので、こういった指導が続くと奏者は自分から率先して色を作り出そうしなくなります。みんな死んだ魚のような目で「色を作る分量を教えてください」となってしまいます。したがって奏者は音が出せればだれでも良いわけで、その結果、100回演奏したら100回まったく同じ演奏ができてしまう奇妙なロボット集団になります。
吹奏楽コンクール前だけこの方法(この指導方法を熟知している謎の指導者を招聘(笑)する)をとるところも多いです。
指揮者Bさんのやり方は、少し時間がかかりますが、各奏者の個性や想像力を高めるためにはとても良い方法だと思います。一番素晴らしいところは「各自が考える」という点。そうやって生み出してきた色には「味」があります(味覚の味じゃないですよ)。
指揮者Cさんは、数字の桁から勉強し直すと良いと思います。
統一した色を全員で作り上げるのはとても難しいことです。指揮者の望む色を理解して、自分もそれに近づけていく。自分と指揮者だけでなくパート内、隣の楽器、他の遠くにいる楽器とも同じ系統の色にしていくわけですから、いろんなところに目(耳)を向ける必要もあります。誰かに色を作ってもらうのではなく「自分の意思でひとつの色を作り上げる」ということが大切です。
その経験が自分の成長につながっていくのです。
最初から作り方を全部教えてしまうような指導では、何も育ちません。
《色とは何か》
ところでこの「色」とは音楽においては具体的に何を指しているのかわかりますか?
音色や鳴らし方、歌い方(フレーズの感じ方、緩急、ヴィブラートなど)と言った「表現」です。
例えば「海」というキーワードひとつが提示されて色を作る(=自分のイメージする表現を演奏で具体化する)ことになったとします。
「海」と言われてあなたはどんなイメージを持ちますか?
「夏!」
「広い!」
「暑い!」
「砂遊び!」
「スイカ割り!」
「ビーチバレー!」
「海の家!やきそば!」
「ハワイ!」
「ヒャッハー!」
という人が多いかもしれません。系統としては明るくて元気な感じのイメージですね。
しかし、中にはこのようなイメージを持つ人がいるかもしれません。
「荒れ狂う日本海の海」
「サメに襲われる」
「おぼれる」
「崖から転落」
「サスペンスドラマのラストシーン=逮捕」
「嫌い」
「悲しい」
「失恋」
など。深く事情は聞きませんが、「海=明るく楽しい」を連想する人がいる一方、いわばネガティブな発想を持つ人も必ずいる、ということです。
ですから、色を統一するということは、各奏者のイメージをより近いものにしていく作業でもあります。その指標を決めるのが指揮者なのです。指揮者がどう言うかで同じ「海」でも方向性が変わりますし、その指揮者のもとで演奏をするのなら、自分がどんなイメージだったとしても、指揮者の持っているイメージに切り替える必要があるのです。そうしないと方向性が統一された音楽を作ることはできません。
このように音楽を「色」に例えると、新たに見えてくることがたくさんあります。
特に個人練習で、曲をまずはひとりで完成させるにあたって、楽譜に書いてある音の高さやリズムを正確に再現できるようにするだけの時間になってほしくありません。
その作品が活きるために、どんな表現をしたらベストか。それを自分なりに納得のいく形まで作り上げておくのです。
それが最初の合奏までにする演奏者に課せられたものなのです。
次回も色に例えたお話をしていきます。ぜひご覧ください。
それではまた来週!
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at 06:35, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方
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2016.08.02 Tuesday
センスとは
みなさんこんにちは!
先日、ツイッターでこんなことをツイートしました。
『通りすがりの人の着てる服を見て、自分じゃ絶対選ばないなと思うことがある。でもきっとその人は良いと思ったからそれを選んだわけで、どちらがどうということではなく、それがセンスなのでしょう。』
駅のエスカレーターを下っていたとき、目の前にいた方の服装がとても独特だったのです。思わず見てしまい、「すごいなあ、この服着て歩くの、ちょっと無理だなぁ」なんて思っていたのですが、ふと街を歩いている人たちを見てみると、ほとんどの方の着ている服が「自分では選ばないなあ」と思うものばかりでした。
我々はむしろお店に行っても、「(自分が)欲しい!」と思うものに出会える確率のほうがよほど低いわけで、でもお店でスルーしたそれらの服を「これだ!」と感じて買われる方もやはりいらっしゃるわけで。
「無地のスーツ」みたいな万人が絶対否定しない服も中にはありますが、ほとんどの場合はそれぞれ好みが違いますね。
人が「良い!」とか「かっこいい!」、「かっこわるい!」と感じるそれを一般的に「センス」と呼びます。
《好みはひとそれぞれ》
では音楽ではどうでしょうか。
音楽も好んで聴くものが人によって違いますね。中にはなんでも大好き、という方もいらっしゃいますが、そういう方でも「やっぱりこれははずせないよね」という音楽が大概あります。
トランペットのプレイヤーでも、◯◯というソリストが大好きな人もいれば、△△という方ばかりを聴いている方もいます。
◯◯フィルが大好き、△△交響楽団のファン、とか。
自分の演奏のファンになってもらえたら、それはそれは嬉しいことです。
《否定もセンスの産物》
しかし「センス」というのは好きだけではありません。実際僕が駅のエスカレーターで出会った方の服を否定的に見てしまったのと同じように、音楽においても、好きだ、という方がいらっしゃる反面、嫌いだ、という人が必ずいらっしゃいます。
その好きだ嫌いだというのは、上手だ下手だとは一概に関係しているとは言えません。世界で一流とされているオーケストラであっても「あんまりあそこの演奏好きじゃないんだよね」なんて会話がたくさんされていますからね。
《無味無臭な演奏ではその段階にも行けません》
このようにセンスは、人によってまったく違うものになるのです。
ただし、センスに対する賛否は、センスを強く主張をしているものでなければ生まれません。
なぜなら、黙っている人に何か意見があるでしょうか。「意見を言いなさい」という意見はあるかもしれませんが、自分の主張をしない人に対して、それを賛成することも否定することもできません。よって、その人に対しては特に意見がないのです。だって何か思っていたとしても、口に出さないから言いたいこともわからないですし。
結果、誰にも見向きもされないままです。
音楽も同じです。否定されることを恐れて主張をしないなんてこと、絶対してはいけないのです。
そもそも音楽は、何か伝えたい、訴えたい、理解してもらいたい、知って欲しいという欲から生まれたものです。聴いてもらいたくないのに作曲する人なんていないのです。
ですから、それを音にして伝える演奏者は、無味無臭無色透明な演奏をしては絶対いけないわけで、作曲家の思いや考えと、さらには演奏者自身の思いや考え、訴える気持ちの強さを持った上で演奏しなければなりません。
そうして強い強いセンスを演奏で放出した結果、それを聴いた人たちから何かしらのアクションが生まれます。
「感動した!」
「また聴きたい!」
「素晴らしい!」
「涙が出た!」
など。しかし、この反応が強ければ強いほどこんな言葉も耳にすることになるかもしれません。
「好きじゃない」
「そうじゃない」
これらは悪意に満ちて言っているわけではないと思います。心の中の声を足すと、
「(僕は)好きじゃない(でも好きな人はたくさんいると思うよ)」
「(僕は)そうじゃない(と思う。こういう解釈があるのは理解できるけど)」
人のセンスは様々です。どんな演奏をしても、万人に本気で賞賛される音楽表現などないのです。
《コンクールでもセンスを発揮しましょう》
このお話は「上手」「下手」「ミスした」「ミスしていない」という低い段階のお話ではありません。
もちろん、そういった点で評価が変化する可能性もありますし、ミスはしないに限りますが、それを関係なく(覆してしまうくらい)強い表現力、センスを出せる音楽を演奏したいと思いますし、そういう演奏をたくさん聴きたいと思っています。
コンクールシーズン真っ只中です。もう地区予選が終わってしまったところも多いかと思いますが、音をはずすとか、ピッチが高い低いだ、テンポが(メトロノーム的に)安定してないだとか、そういうことばかりを考えて演奏するのではなく、もっとおおらかに、自分が表現したい音色で歌を心から出して欲しいです。
「上手だね」
なんてお世辞めいた言葉を求めて演奏しないでください。
「良いね!」
「好き!」
「好きじゃない!」
「そうじゃない!」
という言葉がみんなから溢れ出てきてしまう演奏をしてください。
センスはひとそれぞれ。
だったら自分が最高に「良い!」と思う演奏をするしかありません。
おもいっきり「良い!」演奏をしちゃってください。
ということでまた来週!
先日、ツイッターでこんなことをツイートしました。
『通りすがりの人の着てる服を見て、自分じゃ絶対選ばないなと思うことがある。でもきっとその人は良いと思ったからそれを選んだわけで、どちらがどうということではなく、それがセンスなのでしょう。』
駅のエスカレーターを下っていたとき、目の前にいた方の服装がとても独特だったのです。思わず見てしまい、「すごいなあ、この服着て歩くの、ちょっと無理だなぁ」なんて思っていたのですが、ふと街を歩いている人たちを見てみると、ほとんどの方の着ている服が「自分では選ばないなあ」と思うものばかりでした。
我々はむしろお店に行っても、「(自分が)欲しい!」と思うものに出会える確率のほうがよほど低いわけで、でもお店でスルーしたそれらの服を「これだ!」と感じて買われる方もやはりいらっしゃるわけで。
「無地のスーツ」みたいな万人が絶対否定しない服も中にはありますが、ほとんどの場合はそれぞれ好みが違いますね。
人が「良い!」とか「かっこいい!」、「かっこわるい!」と感じるそれを一般的に「センス」と呼びます。
《好みはひとそれぞれ》
では音楽ではどうでしょうか。
音楽も好んで聴くものが人によって違いますね。中にはなんでも大好き、という方もいらっしゃいますが、そういう方でも「やっぱりこれははずせないよね」という音楽が大概あります。
トランペットのプレイヤーでも、◯◯というソリストが大好きな人もいれば、△△という方ばかりを聴いている方もいます。
◯◯フィルが大好き、△△交響楽団のファン、とか。
自分の演奏のファンになってもらえたら、それはそれは嬉しいことです。
《否定もセンスの産物》
しかし「センス」というのは好きだけではありません。実際僕が駅のエスカレーターで出会った方の服を否定的に見てしまったのと同じように、音楽においても、好きだ、という方がいらっしゃる反面、嫌いだ、という人が必ずいらっしゃいます。
その好きだ嫌いだというのは、上手だ下手だとは一概に関係しているとは言えません。世界で一流とされているオーケストラであっても「あんまりあそこの演奏好きじゃないんだよね」なんて会話がたくさんされていますからね。
《無味無臭な演奏ではその段階にも行けません》
このようにセンスは、人によってまったく違うものになるのです。
ただし、センスに対する賛否は、センスを強く主張をしているものでなければ生まれません。
なぜなら、黙っている人に何か意見があるでしょうか。「意見を言いなさい」という意見はあるかもしれませんが、自分の主張をしない人に対して、それを賛成することも否定することもできません。よって、その人に対しては特に意見がないのです。だって何か思っていたとしても、口に出さないから言いたいこともわからないですし。
結果、誰にも見向きもされないままです。
音楽も同じです。否定されることを恐れて主張をしないなんてこと、絶対してはいけないのです。
そもそも音楽は、何か伝えたい、訴えたい、理解してもらいたい、知って欲しいという欲から生まれたものです。聴いてもらいたくないのに作曲する人なんていないのです。
ですから、それを音にして伝える演奏者は、無味無臭無色透明な演奏をしては絶対いけないわけで、作曲家の思いや考えと、さらには演奏者自身の思いや考え、訴える気持ちの強さを持った上で演奏しなければなりません。
そうして強い強いセンスを演奏で放出した結果、それを聴いた人たちから何かしらのアクションが生まれます。
「感動した!」
「また聴きたい!」
「素晴らしい!」
「涙が出た!」
など。しかし、この反応が強ければ強いほどこんな言葉も耳にすることになるかもしれません。
「好きじゃない」
「そうじゃない」
これらは悪意に満ちて言っているわけではないと思います。心の中の声を足すと、
「(僕は)好きじゃない(でも好きな人はたくさんいると思うよ)」
「(僕は)そうじゃない(と思う。こういう解釈があるのは理解できるけど)」
人のセンスは様々です。どんな演奏をしても、万人に本気で賞賛される音楽表現などないのです。
《コンクールでもセンスを発揮しましょう》
このお話は「上手」「下手」「ミスした」「ミスしていない」という低い段階のお話ではありません。
もちろん、そういった点で評価が変化する可能性もありますし、ミスはしないに限りますが、それを関係なく(覆してしまうくらい)強い表現力、センスを出せる音楽を演奏したいと思いますし、そういう演奏をたくさん聴きたいと思っています。
コンクールシーズン真っ只中です。もう地区予選が終わってしまったところも多いかと思いますが、音をはずすとか、ピッチが高い低いだ、テンポが(メトロノーム的に)安定してないだとか、そういうことばかりを考えて演奏するのではなく、もっとおおらかに、自分が表現したい音色で歌を心から出して欲しいです。
「上手だね」
なんてお世辞めいた言葉を求めて演奏しないでください。
「良いね!」
「好き!」
「好きじゃない!」
「そうじゃない!」
という言葉がみんなから溢れ出てきてしまう演奏をしてください。
センスはひとそれぞれ。
だったら自分が最高に「良い!」と思う演奏をするしかありません。
おもいっきり「良い!」演奏をしちゃってください。
ということでまた来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 05:35, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方
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