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荻原 明
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2016.02.09 Tuesday
表現する、ということ 5
みなさんこんにちは!
ただ今、メールフォームから頂いたご質問「表現をするとはどういうことか」についての回答をブログ用に再度書き直しております(現在はメールによるご質問は受け付けておりません)。今回が最終回。
質問内容は以下の通りです。
=================================================
私の悩みは、ただ吹いているようにしか思えないことです。
もちろん、メロディか伴奏かわかった上で音量などを気にするようにはしています。ですが、何か違う気がするのです。まだ表現しきれてないというか吹いてて楽しくない。それがなぜかもわからない。指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない、こんなんでなんの練習すればいいのかよくわからないのです。もっとみんなの音を聞くとか入りを合わせるとか言われますが、何をすればいいのかよくわからないです。
表現をどうやったら生み出せるのか、楽しく吹けるのか、それを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
(一部修正、抜粋)
※ちなみに、このメールを頂いた時は、金管アンサンブルの「三匹の猫」より「ミスター・ジャムス」(C.ヘイゼル作曲)を練習していたとのことです。
=================================================
前回の記事は、「表現」を「プレゼント」にたとえ、聴いてくれる方全員に心を込めてプレゼントを手渡せば、何かしらの反応をしてくれるものです、といった内容を書きました。これまでの記事については以下のリンクよりご覧いただけます。簡単な内容やテーマも書いておきます。ぜひ1の記事から目を通していただけるとスムーズかと思います。
表現する、ということ 1「表現するとは」「音楽での表現とは」
表現する、ということ 2「表現力とは」「質問者さんはプレゼントの「箱」を美しくしている」
表現する、ということ 3「表現することがわからない、とはどういうことなのか(3つの原因)」
表現する、ということ 4「プレゼントは渡さないと反応がない」
今回で「表現」についての記事は最終回です。
《プレゼントの中身も基礎練習で美しく》
自分自身の気持ちを聴いてくださる方々に誤解なく届けるためには、しっかりした演奏をすることが大切です。
例えば発表やプレゼンなど人前で話すことがあったとします。そのときに滑舌悪くて伝わらなかったり、単語の選び方を間違えて誤解を招いたり、そんなことがあっては自分がいちばんショックですよね。
音楽でも同じです。本当はもっとハッキリと発音して、かっこいい演奏をしたいと思っているシーンで、ゆるいタンギングしかできなかったり、ピッチやリズムが悪かったりして、その作品の良さや特徴が聴いてくださる方に伝わらない、なんてことが起こるかもしれません。そうならないために基礎的な要素を高めていく時間=基礎練習が必要になってきます。
しかしそれだけではありません。先ほどのプレゼンの話をすれば、ただ用意した原稿を機械的に伝えるだけでは、相手の心には何も残りません。より関心を持って聴いてくれたり、心を動かされたりするための力も基礎練習で培っていくものです。
音楽でいうならば、音量や音色の引き出しの多さ。メロディを演奏しているときにかけるヴィブラート、こうしたテクニックを基礎練習の時間で身につけていきます。ただし、これら自体は表現ではなく「表現力をアップする手段」ですので、無感情で機械的にやっても効果は薄くなってしまいます。
このように、プレゼントの中身がより良いものにしていくための「基礎練習」もメニューをいろいろと考えて実践してみてください。
音量に関しては過去の記事「強弱記号」に詳しく書いてありますのでぜひこちらも参考にしてください。
《まとめ》
それでは、ここまで5回にわたって書いてきました表現についての記事、あとがき的なものを書かせてもらいます。今、基礎力について書いておいて矛盾しているように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。とりあえず最後まで読んでみてください。(こんな意見もあるんだな程度で読んでください)
最近の表現は、「表面的クオリティの向上」ばかりが目立って仕方ありません。しかもそれが「良いもの」となっていることに悲しさを覚えます。
最初にそれが顕著になったのは、ボーカロイドです。あの存在そのものは否定しません。すごい技術だし、存在そのものはとても面白いと思います。でも、あれで作られた音楽は、作品ではあるけれど「演奏」ではありません。要するに、一連の記事でも書いたとおり、作曲という音楽表現方法ではあるけれど、演奏表現は皆無ということ。なぜなら、演奏者に心がないからです。
今ではインターネット上で誰でも動画を投稿できるようになりましたが、ネット配信は広く知らしめるためのツールとしては非常に有効なものでこれを使わないのはもったいないと、僕も思います。ですが、やはりこれまでの音楽とはだいぶ違う方向性を持っている感じがします。
それは、非常に表面的なところばかりを披露し、そして表面的なところだけを評価するようになった点です。その結果、音楽そのものがとても表面的で浅い完成度になってきたとも感じるのです。
具体的にいうと、ネット上でトランペットを吹いている動画の評価が高いものは、すごいテクニック、ハイノートや素早いパッセージが演奏できるとか(すでにソリストやミュージシャンとしてプロで活躍している方の動画ではなく、プレイヤー名を名乗らず、ハンドルネームで動画にたくさん投稿している人について言っています)。
もちろん良いと思います。できないよりできることは良いのですから。でも、それらはある意味「曲芸」のようなもの。「すごーい」という感想を生むだけです。
さらにがっかりするのが、それらに付いているコメント。「音程(ピッチ)が良い/悪い」「テンポがぶれない/ぶれてる」「リズム乱れた!」そんな表面的なことばかり。文句ばかりで、しまいには表面的なコメント同士で口論したり。言い捨てばかり(匿名性の強いネットの怖いところですね)。読んでいるだけで心が荒んでしまいますし、悲しいです。
ピッチとかテンポとか、もちろん音楽を構築する上でとても大切です。しかし、音楽の一番大切なことは今回の一連の記事で散々書いてきた「心を伝える/伝わる」ことです。
このような技術ばかりが先行してしまった原因は、やはり全国的な吹奏楽の指導方法の影響が一番にあるのではないか、と思うのです。
演奏者は二言目にはピッチのこと、テンポのことばかり指摘され、正しい対処法の説明も受けずに楽器を吹き続け、「練習ということはこういうことだ!」と言わんばかりにテンポピッチピッチテンポ音程ピッチテンポピッチ音程音程音程チューナーとずれてるメトロノームとずれただのそんなことばかり。
ピッチはチューナーで「誰でも」高いか低いか判断できます。
メトロノームのクリック音と、奏者の音がずれれば「誰でも」わかります。
結局は、指導している人の音楽的な力がポイントだと思うのです。
ピッチが悪いのも、テンポがずれたのも誰でも指摘はできます。「ずれてるぞ!」と怒鳴ればいいだけですから、楽な商売です。指導者のする仕事ではありません。
本来であればそういった指導は、テンポやピッチを良くするための音楽的な捉え方、考え方を的確に伝えて、練習方法を示唆し、奏者の基礎的な力を自発的につけていける助言をすることだと思うのです。それができないから、表面的な「指摘(指導ではない!)」をするだけになってしまう。
そんなことだから、教わっている側は「そうか、これが音楽の練習方法なのだ」と間違った認識をしてしまう。
そして、いつでもチューナーをONにした不可思議な練習をしたり、メトロノームのクリック音にメロディを当てはめる、みたいな練習を当たり前のようにしてしまっているのです。
そんな音楽的育ち方をした人がたくさんいるものだから、インターネット上のコメントも、指摘しかできない指導者の受け売りばかりになってしまうのでしょう。
もちろん、演奏技術の向上は、音楽をする上でとても大切です。しかし、それよりも何倍も何十倍も大切なのが、音楽に「心」を携えているかです。音楽は心を届ける方法のひとつ。ちょっとくらい不器用でも(上手でなくても)、技術不足でも、心を込めて、伝えたい気持ちを強くもって演奏をしてほしいと思っています。
吹奏楽コンクールで金賞を取ることも大切かもしれません。しかし、現状では、「金賞を取るための練習」という名の対策になってしまっていて、「結果的に金賞が取れる演奏」をしようとしていないのが残念でなりません。
「金賞を取るための練習」のほうが無駄がなく能率的ですから、限られた時間で完成させる教育現場での音楽活動ではうってつけなのもわかります。しかし、それによって心を失ってる団体があるのではないか、ということが気がかりなのです。
本当に大切なのは、音楽を通して心が豊かになることだと思っています。教育現場での音楽活動…吹奏楽部ではそれを第一に練習してほしいと思ってやみません。
ということで、5回にわたって書いてきた「表現する、ということ」はここまでです。
次回より新しい内容で進めていきますので、引き続きご覧頂ければ幸いです。
それでは、また来週!
ただ今、メールフォームから頂いたご質問「表現をするとはどういうことか」についての回答をブログ用に再度書き直しております(現在はメールによるご質問は受け付けておりません)。今回が最終回。
質問内容は以下の通りです。
=================================================
私の悩みは、ただ吹いているようにしか思えないことです。
もちろん、メロディか伴奏かわかった上で音量などを気にするようにはしています。ですが、何か違う気がするのです。まだ表現しきれてないというか吹いてて楽しくない。それがなぜかもわからない。指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない、こんなんでなんの練習すればいいのかよくわからないのです。もっとみんなの音を聞くとか入りを合わせるとか言われますが、何をすればいいのかよくわからないです。
表現をどうやったら生み出せるのか、楽しく吹けるのか、それを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
(一部修正、抜粋)
※ちなみに、このメールを頂いた時は、金管アンサンブルの「三匹の猫」より「ミスター・ジャムス」(C.ヘイゼル作曲)を練習していたとのことです。
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前回の記事は、「表現」を「プレゼント」にたとえ、聴いてくれる方全員に心を込めてプレゼントを手渡せば、何かしらの反応をしてくれるものです、といった内容を書きました。これまでの記事については以下のリンクよりご覧いただけます。簡単な内容やテーマも書いておきます。ぜひ1の記事から目を通していただけるとスムーズかと思います。
表現する、ということ 1「表現するとは」「音楽での表現とは」
表現する、ということ 2「表現力とは」「質問者さんはプレゼントの「箱」を美しくしている」
表現する、ということ 3「表現することがわからない、とはどういうことなのか(3つの原因)」
表現する、ということ 4「プレゼントは渡さないと反応がない」
今回で「表現」についての記事は最終回です。
《プレゼントの中身も基礎練習で美しく》
自分自身の気持ちを聴いてくださる方々に誤解なく届けるためには、しっかりした演奏をすることが大切です。
例えば発表やプレゼンなど人前で話すことがあったとします。そのときに滑舌悪くて伝わらなかったり、単語の選び方を間違えて誤解を招いたり、そんなことがあっては自分がいちばんショックですよね。
音楽でも同じです。本当はもっとハッキリと発音して、かっこいい演奏をしたいと思っているシーンで、ゆるいタンギングしかできなかったり、ピッチやリズムが悪かったりして、その作品の良さや特徴が聴いてくださる方に伝わらない、なんてことが起こるかもしれません。そうならないために基礎的な要素を高めていく時間=基礎練習が必要になってきます。
しかしそれだけではありません。先ほどのプレゼンの話をすれば、ただ用意した原稿を機械的に伝えるだけでは、相手の心には何も残りません。より関心を持って聴いてくれたり、心を動かされたりするための力も基礎練習で培っていくものです。
音楽でいうならば、音量や音色の引き出しの多さ。メロディを演奏しているときにかけるヴィブラート、こうしたテクニックを基礎練習の時間で身につけていきます。ただし、これら自体は表現ではなく「表現力をアップする手段」ですので、無感情で機械的にやっても効果は薄くなってしまいます。
このように、プレゼントの中身がより良いものにしていくための「基礎練習」もメニューをいろいろと考えて実践してみてください。
音量に関しては過去の記事「強弱記号」に詳しく書いてありますのでぜひこちらも参考にしてください。
《まとめ》
それでは、ここまで5回にわたって書いてきました表現についての記事、あとがき的なものを書かせてもらいます。今、基礎力について書いておいて矛盾しているように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。とりあえず最後まで読んでみてください。(こんな意見もあるんだな程度で読んでください)
最近の表現は、「表面的クオリティの向上」ばかりが目立って仕方ありません。しかもそれが「良いもの」となっていることに悲しさを覚えます。
最初にそれが顕著になったのは、ボーカロイドです。あの存在そのものは否定しません。すごい技術だし、存在そのものはとても面白いと思います。でも、あれで作られた音楽は、作品ではあるけれど「演奏」ではありません。要するに、一連の記事でも書いたとおり、作曲という音楽表現方法ではあるけれど、演奏表現は皆無ということ。なぜなら、演奏者に心がないからです。
今ではインターネット上で誰でも動画を投稿できるようになりましたが、ネット配信は広く知らしめるためのツールとしては非常に有効なものでこれを使わないのはもったいないと、僕も思います。ですが、やはりこれまでの音楽とはだいぶ違う方向性を持っている感じがします。
それは、非常に表面的なところばかりを披露し、そして表面的なところだけを評価するようになった点です。その結果、音楽そのものがとても表面的で浅い完成度になってきたとも感じるのです。
具体的にいうと、ネット上でトランペットを吹いている動画の評価が高いものは、すごいテクニック、ハイノートや素早いパッセージが演奏できるとか(すでにソリストやミュージシャンとしてプロで活躍している方の動画ではなく、プレイヤー名を名乗らず、ハンドルネームで動画にたくさん投稿している人について言っています)。
もちろん良いと思います。できないよりできることは良いのですから。でも、それらはある意味「曲芸」のようなもの。「すごーい」という感想を生むだけです。
さらにがっかりするのが、それらに付いているコメント。「音程(ピッチ)が良い/悪い」「テンポがぶれない/ぶれてる」「リズム乱れた!」そんな表面的なことばかり。文句ばかりで、しまいには表面的なコメント同士で口論したり。言い捨てばかり(匿名性の強いネットの怖いところですね)。読んでいるだけで心が荒んでしまいますし、悲しいです。
ピッチとかテンポとか、もちろん音楽を構築する上でとても大切です。しかし、音楽の一番大切なことは今回の一連の記事で散々書いてきた「心を伝える/伝わる」ことです。
このような技術ばかりが先行してしまった原因は、やはり全国的な吹奏楽の指導方法の影響が一番にあるのではないか、と思うのです。
演奏者は二言目にはピッチのこと、テンポのことばかり指摘され、正しい対処法の説明も受けずに楽器を吹き続け、「練習ということはこういうことだ!」と言わんばかりにテンポピッチピッチテンポ音程ピッチテンポピッチ音程音程音程チューナーとずれてるメトロノームとずれただのそんなことばかり。
ピッチはチューナーで「誰でも」高いか低いか判断できます。
メトロノームのクリック音と、奏者の音がずれれば「誰でも」わかります。
結局は、指導している人の音楽的な力がポイントだと思うのです。
ピッチが悪いのも、テンポがずれたのも誰でも指摘はできます。「ずれてるぞ!」と怒鳴ればいいだけですから、楽な商売です。指導者のする仕事ではありません。
本来であればそういった指導は、テンポやピッチを良くするための音楽的な捉え方、考え方を的確に伝えて、練習方法を示唆し、奏者の基礎的な力を自発的につけていける助言をすることだと思うのです。それができないから、表面的な「指摘(指導ではない!)」をするだけになってしまう。
そんなことだから、教わっている側は「そうか、これが音楽の練習方法なのだ」と間違った認識をしてしまう。
そして、いつでもチューナーをONにした不可思議な練習をしたり、メトロノームのクリック音にメロディを当てはめる、みたいな練習を当たり前のようにしてしまっているのです。
そんな音楽的育ち方をした人がたくさんいるものだから、インターネット上のコメントも、指摘しかできない指導者の受け売りばかりになってしまうのでしょう。
もちろん、演奏技術の向上は、音楽をする上でとても大切です。しかし、それよりも何倍も何十倍も大切なのが、音楽に「心」を携えているかです。音楽は心を届ける方法のひとつ。ちょっとくらい不器用でも(上手でなくても)、技術不足でも、心を込めて、伝えたい気持ちを強くもって演奏をしてほしいと思っています。
吹奏楽コンクールで金賞を取ることも大切かもしれません。しかし、現状では、「金賞を取るための練習」という名の対策になってしまっていて、「結果的に金賞が取れる演奏」をしようとしていないのが残念でなりません。
「金賞を取るための練習」のほうが無駄がなく能率的ですから、限られた時間で完成させる教育現場での音楽活動ではうってつけなのもわかります。しかし、それによって心を失ってる団体があるのではないか、ということが気がかりなのです。
本当に大切なのは、音楽を通して心が豊かになることだと思っています。教育現場での音楽活動…吹奏楽部ではそれを第一に練習してほしいと思ってやみません。
ということで、5回にわたって書いてきた「表現する、ということ」はここまでです。
次回より新しい内容で進めていきますので、引き続きご覧頂ければ幸いです。
それでは、また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 08:31, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方
2016.02.02 Tuesday
表現する、ということ 4
みなさんこんにちは!
ただ今、メールフォームから頂いたご質問「表現をするとはどういうことか」についての回答をブログ用に再度書き直しております。(現在はメールによるご質問は受け付けておりません)
質問内容は以下の通り。
=================================================
私の悩みは、ただ吹いているようにしか思えないことです。
もちろん、メロディか伴奏かわかった上で音量などを気にするようにはしています。ですが、何か違う気がするのです。まだ表現しきれてないというか吹いてて楽しくない。それがなぜかもわからない。指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない、こんなんでなんの練習すればいいのかよくわからないのです。もっとみんなの音を聞くとか入りを合わせるとか言われますが、何をすればいいのかよくわからないです。
表現をどうやったら生み出せるのか、楽しく吹けるのか、それを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
(一部修正、抜粋)
※ちなみに、このメールを頂いた時は、金管アンサンブルの「三匹の猫」より「ミスター・ジャムス」(C.ヘイゼル作曲)を練習していたとのことです。
=================================================
前回の記事は、質問者さんの「表現することがわからない」のはなぜなのか、3つの原因を挙げてみました。これまでの記事については以下のリンクよりご覧いただけます。ぜひ最初から目を通していただけるとスムーズかと思います。
表現する、ということ 1
表現する、ということ 2
表現する、ということ 3
では、今回は質問者さんのメールに書いてある中の「指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない」のはいったいなぜなのか、解説してみます。
《プレゼントは渡さないと反応がない》
2つ前の記事「表現する、ということ 2」で、《プレゼントの「箱」を美しくしている》ことについて書きました。
この質問者さんは、例えて言うなら「プレゼントの『箱』をとても美しくしようと努力し続けている状態」なのです。ここで言う「箱」とは、音楽で言うところの「テンポ」「リズム」「ピッチ」といった音楽を構築するために必要な「基礎」のことを指します。
毎日毎日練習時間に「箱」を美しくしようと努力している質問者さんは、合奏やレッスンで先生に
「こんなプレゼントの箱を作ってみました」
と、箱を『見せただけ(←ここが肝心)』なのではないか、と想像します。
プレゼントの箱は渡されれば「くれるの?ありがとう!」という反応がありますが(そして箱を開けた続きもある!)、箱を見せただけでは「僕にくれるわけじゃないのか」という反応になってしまい、「ああ、いいんじゃない?」「うん、キレイな箱だね」と、ほぼ無関心のままで終わってしまうのです。
ですから、演奏していても先生方からは「いいねそれ!」とか「こうしてみたらもっと良くなるよ!」もしくは「それはちょっと違うかな」といった反応がないのだと思います。
質問者さんの用意した箱は「箱としては」とってもキレイで寸分の狂いもなく作られて非の打ち所がないのかもしれません。だから余計に何も言うことがない。
プレゼントは渡すためのもの。見せただけでは反応はないのです。
《プレゼントを受け取ったとき》
みなさんも思い出してください。演奏、歌、絵画、写真、本、マンガ、アニメ、ドラマ、演劇、落語、お笑い、スポーツ、手紙、友人や家族・先生・知り合いとの会話、コンビニの店員さん、広告、チラシなど、誰でも何でもいいのですが「感動させられたこと」はありますか?
「感動」って良いことに刺激を受けてジーンときて涙を流す特別な瞬間、みたいに思ってしまいがちですが、ここではもっと単純に「心を動かされたこと」と考えてみてください。
ですから、範囲はもっと広くなります。思わず笑ったり泣いたり、イライラしたり、ケンカしちゃったり、自分が主人公になった気分になったり、空想(妄想)してニヤニヤしてみたり。そう考えると、毎日がたくさんの感動で溢れていますよね。
これが「表現を受け取った」ということであり、「プレゼントを渡されたとき」なんです。
自分が注意深くしているから(積極的な姿勢だったから)受け取ることができた(最初から受け取ろうとしていた)ものもあると思いますし、予期せず偶然受け取ったものもあるでしょう。感動する要素、表現をしている人やモノは世の中に本当にたくさんころがっているんです。
《プレゼントを渡そう》
プレゼント、誰かに渡したことありますか?喜んでくれるかな?大丈夫かな?とドキドキしますよね。勇気がいるけど、とっても楽しみです。
演奏の上でもまったく同じで、自分の「気持ち」というプレゼントを手渡す意志を見せなければ多くの場合伝わりません。先ほど、「自分が注意深くしているから(積極的な姿勢だったから)受け取ることができた(最初から受け取ろうとしていた)」と書きましたが、例えばとても仲の良い友人や親御さんなどは、無条件で自分のことを受け入れる姿勢になってくれることが多いので、こちらが何も発信しなくても、単に音を出しているだけでそこから掘り下げて感動してくれる、なんてこともよくあります。
ホームコンサートならまだしも、不特定多数の方がいらっしゃるコンサートや審査されるコンクール、より良くしていくためのレッスンでは、それは通用しません。
こちらから積極的にプレゼントを渡すこと=自分の演奏を聴いてくれるすべての人(共演者や指導の先生も含めて、そのとき聴いてくれる全員)に自分の想いを届ける強い気持ちを持ってください。
その「強い気持ち」こそが、「プレゼントの中身」なのです。箱はキレイに越したことありませんが、もっと大切な中身をしっかりと詰めて聴いてくれる人に手渡しましょう。
《プレゼントを渡された人の反応》
プレゼントを渡された人は、中身を見てくれるはずです。その中身がすごく嬉しい!欲しかった!と共感してくれる人たちはとっても喜んでくれるでしょう(心を動かされたのです)。
また、その中身が、あまり欲しいと思っていなかったものや、あまり嬉しくないものであっても、気持ちが強く込められていれば、渡された人は嫌な気持ちになることはほぼありません。「そういう考え方もあるよね、わかるよ」と受け入れてくれることでしょう(心を動かされたのです)。
もっとすごいのは(ある意味これが演奏の醍醐味なのかもしれませんが)聴いてくださった方にとって、それまで関心のなかったことであっても、演奏の強い影響力によって興味を持ってもらえる瞬間かもしれないのです。「トランペットって、うるさい音しか出ないと思ってたけど、こんなに美しい音が出るんだね!」とか。これができたらすごいですよね。
喜んでくださる方がいる一方、否定的な言葉をストレートに表現される方もいらっしゃいます。共感できないと、けげんな顔をしたり、指導の先生や身近な先輩だと、(愛情を持って)指摘をしたり、アドバイスをくれたり(心を動かされたのです)。
そう考えると、どんな反応であれ、勇気を持ってプレゼントを渡せば、渡された人のほとんどは何か反応をしてくれる=心を動かされている、ということなのです。
喜んでくれた反応には素直に喜び、指摘やアドバイスを受けたら、その人たちに納得してもらえるように努力しようとし、否定的な言葉は、受け入れられることは素直に受け入れ(成長材料です)、悪意を感じるもの、根拠がなさそうなものは見て見ぬふりをする、忘れる。こんな感じでいいかと思います。
表現というのは、自分の中で感じて終わらせるのではなく、相手に届けようとする気持ちが大切なのです。
ちょっとの勇気を持って、演奏を聴いてくれる人全員にプレゼントを渡してください。
ということで、次回もまだ続きます。ぜひおつきあいください。
また来週!
ただ今、メールフォームから頂いたご質問「表現をするとはどういうことか」についての回答をブログ用に再度書き直しております。(現在はメールによるご質問は受け付けておりません)
質問内容は以下の通り。
=================================================
私の悩みは、ただ吹いているようにしか思えないことです。
もちろん、メロディか伴奏かわかった上で音量などを気にするようにはしています。ですが、何か違う気がするのです。まだ表現しきれてないというか吹いてて楽しくない。それがなぜかもわからない。指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない、こんなんでなんの練習すればいいのかよくわからないのです。もっとみんなの音を聞くとか入りを合わせるとか言われますが、何をすればいいのかよくわからないです。
表現をどうやったら生み出せるのか、楽しく吹けるのか、それを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
(一部修正、抜粋)
※ちなみに、このメールを頂いた時は、金管アンサンブルの「三匹の猫」より「ミスター・ジャムス」(C.ヘイゼル作曲)を練習していたとのことです。
=================================================
前回の記事は、質問者さんの「表現することがわからない」のはなぜなのか、3つの原因を挙げてみました。これまでの記事については以下のリンクよりご覧いただけます。ぜひ最初から目を通していただけるとスムーズかと思います。
表現する、ということ 1
表現する、ということ 2
表現する、ということ 3
では、今回は質問者さんのメールに書いてある中の「指導の先生にも先輩にも褒められもしない注意されもしない」のはいったいなぜなのか、解説してみます。
《プレゼントは渡さないと反応がない》
2つ前の記事「表現する、ということ 2」で、《プレゼントの「箱」を美しくしている》ことについて書きました。
この質問者さんは、例えて言うなら「プレゼントの『箱』をとても美しくしようと努力し続けている状態」なのです。ここで言う「箱」とは、音楽で言うところの「テンポ」「リズム」「ピッチ」といった音楽を構築するために必要な「基礎」のことを指します。
毎日毎日練習時間に「箱」を美しくしようと努力している質問者さんは、合奏やレッスンで先生に
「こんなプレゼントの箱を作ってみました」
と、箱を『見せただけ(←ここが肝心)』なのではないか、と想像します。
プレゼントの箱は渡されれば「くれるの?ありがとう!」という反応がありますが(そして箱を開けた続きもある!)、箱を見せただけでは「僕にくれるわけじゃないのか」という反応になってしまい、「ああ、いいんじゃない?」「うん、キレイな箱だね」と、ほぼ無関心のままで終わってしまうのです。
ですから、演奏していても先生方からは「いいねそれ!」とか「こうしてみたらもっと良くなるよ!」もしくは「それはちょっと違うかな」といった反応がないのだと思います。
質問者さんの用意した箱は「箱としては」とってもキレイで寸分の狂いもなく作られて非の打ち所がないのかもしれません。だから余計に何も言うことがない。
プレゼントは渡すためのもの。見せただけでは反応はないのです。
《プレゼントを受け取ったとき》
みなさんも思い出してください。演奏、歌、絵画、写真、本、マンガ、アニメ、ドラマ、演劇、落語、お笑い、スポーツ、手紙、友人や家族・先生・知り合いとの会話、コンビニの店員さん、広告、チラシなど、誰でも何でもいいのですが「感動させられたこと」はありますか?
「感動」って良いことに刺激を受けてジーンときて涙を流す特別な瞬間、みたいに思ってしまいがちですが、ここではもっと単純に「心を動かされたこと」と考えてみてください。
ですから、範囲はもっと広くなります。思わず笑ったり泣いたり、イライラしたり、ケンカしちゃったり、自分が主人公になった気分になったり、空想(妄想)してニヤニヤしてみたり。そう考えると、毎日がたくさんの感動で溢れていますよね。
これが「表現を受け取った」ということであり、「プレゼントを渡されたとき」なんです。
自分が注意深くしているから(積極的な姿勢だったから)受け取ることができた(最初から受け取ろうとしていた)ものもあると思いますし、予期せず偶然受け取ったものもあるでしょう。感動する要素、表現をしている人やモノは世の中に本当にたくさんころがっているんです。
《プレゼントを渡そう》
プレゼント、誰かに渡したことありますか?喜んでくれるかな?大丈夫かな?とドキドキしますよね。勇気がいるけど、とっても楽しみです。
演奏の上でもまったく同じで、自分の「気持ち」というプレゼントを手渡す意志を見せなければ多くの場合伝わりません。先ほど、「自分が注意深くしているから(積極的な姿勢だったから)受け取ることができた(最初から受け取ろうとしていた)」と書きましたが、例えばとても仲の良い友人や親御さんなどは、無条件で自分のことを受け入れる姿勢になってくれることが多いので、こちらが何も発信しなくても、単に音を出しているだけでそこから掘り下げて感動してくれる、なんてこともよくあります。
ホームコンサートならまだしも、不特定多数の方がいらっしゃるコンサートや審査されるコンクール、より良くしていくためのレッスンでは、それは通用しません。
こちらから積極的にプレゼントを渡すこと=自分の演奏を聴いてくれるすべての人(共演者や指導の先生も含めて、そのとき聴いてくれる全員)に自分の想いを届ける強い気持ちを持ってください。
その「強い気持ち」こそが、「プレゼントの中身」なのです。箱はキレイに越したことありませんが、もっと大切な中身をしっかりと詰めて聴いてくれる人に手渡しましょう。
《プレゼントを渡された人の反応》
プレゼントを渡された人は、中身を見てくれるはずです。その中身がすごく嬉しい!欲しかった!と共感してくれる人たちはとっても喜んでくれるでしょう(心を動かされたのです)。
また、その中身が、あまり欲しいと思っていなかったものや、あまり嬉しくないものであっても、気持ちが強く込められていれば、渡された人は嫌な気持ちになることはほぼありません。「そういう考え方もあるよね、わかるよ」と受け入れてくれることでしょう(心を動かされたのです)。
もっとすごいのは(ある意味これが演奏の醍醐味なのかもしれませんが)聴いてくださった方にとって、それまで関心のなかったことであっても、演奏の強い影響力によって興味を持ってもらえる瞬間かもしれないのです。「トランペットって、うるさい音しか出ないと思ってたけど、こんなに美しい音が出るんだね!」とか。これができたらすごいですよね。
喜んでくださる方がいる一方、否定的な言葉をストレートに表現される方もいらっしゃいます。共感できないと、けげんな顔をしたり、指導の先生や身近な先輩だと、(愛情を持って)指摘をしたり、アドバイスをくれたり(心を動かされたのです)。
そう考えると、どんな反応であれ、勇気を持ってプレゼントを渡せば、渡された人のほとんどは何か反応をしてくれる=心を動かされている、ということなのです。
喜んでくれた反応には素直に喜び、指摘やアドバイスを受けたら、その人たちに納得してもらえるように努力しようとし、否定的な言葉は、受け入れられることは素直に受け入れ(成長材料です)、悪意を感じるもの、根拠がなさそうなものは見て見ぬふりをする、忘れる。こんな感じでいいかと思います。
表現というのは、自分の中で感じて終わらせるのではなく、相手に届けようとする気持ちが大切なのです。
ちょっとの勇気を持って、演奏を聴いてくれる人全員にプレゼントを渡してください。
ということで、次回もまだ続きます。ぜひおつきあいください。
また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 06:29, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方
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