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トランペット ウォームアップ本 (MyISBN - デザインエッグ社) (JUGEMレビュー »)
荻原 明
【販売部数1000部達成!】「ラッパの吹き方」ブログ著者、荻原明 初の教則本!ウォームアップと奏法の基礎を身につけられる一冊です!
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2015.08.25 Tuesday
ツボに当たった音は汚い音? ーー 音色について考える(前編)
みなさんこんにちは!
今回は「音色」についてです。
《トランペットの音色とは?》
みなさんは「トランペットの音色とは?」と聞かれてどんなイメージを持ちますか?パリパリキンキンな音やホンワカした柔らかい音色やキラキラ輝く音色など、文字で表すのは難しかもしれませんが、きっと頭の中ではイメージした音色が鳴っているかと思います。
僕にももちろんあります、トランペットの音色。しかし、奏者によっても、ジャンルによっても、様々な場面でいろいろなトランペットの音色を聴いています。そう、みなさんもイメージする「音」はひとつではないと思うのです。
しかし、僕の場合は、中学校の吹奏楽部でトランペットを始めたばかりの頃は、トランペットの音と言えば横浜スタジアムで鳴り響いていた応援団のトランペットだけでした。当時、すごい憧れていました。
そして部活でいろんな曲を演奏することになって、参考音源としてプロ吹奏楽団のCDを聴き、ニューサウンズでめちゃくちゃカッコイイソロを吹いていた数原晋さんやエリックさんの音を知り、今昔のビッグバンドやジャズの音を知り、スカパラのNARGOさんの音を聴き、ポップスで演奏しているホーンセクションの音を知り、フィリップジョーンズの音を知り、世界中のオーケストラの音を知り、一流の様々なクラシックソリストの音を知り、、、。
そうやってたくさんの音を知ることで、自分の中にある「音色の(イメージの)引き出し」がどんどん増えていきました。なんとなくですが、音楽ジャンルやスタイルによっておおよその吹き方の違いや音色の違いを感じられるようになってきました(なぜこんなに違うのか、どうすればこんなに変わるのか、ということはわかりませんでしたが)。
中には「この音、好きになれないな」と直感的に思う音もありますが、しかしそれも「トランペットの音」には変わりありません。すべてが自分に影響を与えてくれたトランペットの音色です。
そうしているうちにだんだんと「(この場面では)こんな音出したい!」「この人の音、出したい!」と思うようになり、しかし実際はそんな音は到底出せなくて(方法がまったくわからない)...なんて経験をしながら、ひとまず今の自分の音があるのだな、と思います。
たくさんのトランペットの音色に出会うことは、自分の音色の引き出しを増やすための大切な「素材」です。みなさんはどのくらいの「音」を知っていますか?
《ツボに当たった音、素の音は汚い音?》
このブログで度々出てくる「音のツボ」という言葉、これは「その楽器が持つ一番鳴るポイント」のことを指します。
どんな楽器にでも(管楽器専門店で扱っているメーカーのきちんとした楽器であれば)ツボは存在していて、きちんとツボに当てて鳴らせた時、その楽器の持つ本来の「素の音」がわかります。
しかし、なかなかこの「ツボに当たった時の素の音」というのを理解して鳴らせられる人というのは少ないように感じます。レッスンでも時間をかけてしっかりと鳴らす練習を必ずしています。しかし「素の音」を出した時、「え?こんな音でいいの?」と若干疑問を感じる方も少なくありません。
それにはいくつか理由があると思うのですが、まず、ツボに当たった素の音は結構な金属音です。わざと見つけやすいように大きめな音量でしっかり吹いてもらうために余計そう感じるのだろうと思いますが、それが「汚い音」「荒い音」「うるさい音」と感じる方もいます。
最近のトランペット奏者はプロアマ問わず「やわらかく」「優しく」「軽く」音を出している人、そういった音を求める人がとても多く、それが結果として「良い音」の傾向になってきているように感じるので、金属的で響の強い「ツボに当たった音」を出すことに違和感があるのだろうと思います。この話はまた後ほど。
こんなことを言っている僕も音大生の頃まではずっと柔らかい音ばかりをイメージして吹いていました。柔らかい音は太い音であり、これが自分の個性であると思っていました。しかし今思えば単に「ツボに当たらずにこもっていた」だけなのだろうと思います。息の通り抜けが悪いのを腹圧で強引に押し出してごまかしていました。その証拠にツボに当たらないから音をよくはずしていたし、ピッチも悪かったんです。あれは良くなかった。
その発想が大きく変わるきっかけとなったのが、卒業間近に初めてプロオケに乗せてもらったことです。
《プロオケで知った「ツボに当たった音」》
僕は高校生の頃に初めて自分のお金でオーケストラのコンサートに行きました。同じ吹奏楽部だった同級生の友人がオケのことがとても詳しくて、横浜からわざわざ渋谷までN響の定期公演に連れて行ってもらったのがきっかけです。なぜN響だったのかというと、学生席はチケットがとても安く、当日でもほぼ会場で買えたこともそうなのですが、高校一年生で習い初め、今でも非常にお世話になっている師匠がN響の首席奏者だったことが最大の理由です。
NHKホールのステージから一番遠くて高い(値段ではない)席からは自分の師匠が豆粒くらいにしか見えませんでしたが、それでもオーケストラのサウンドは圧倒的で、大興奮。こんなすごいオケでこんなすごい演奏をしている人に自分は習ってるんだ、という嬉しさもあって、暇さえあればN響の定期公演に通うようになりました。
音大に行くようになってからは、N響コンサートへ通う頻度も上がり、師匠が出ている定期公演で、金管が活躍する作品の時はほぼ全て行ったと思います。
僕のトランペットの音のイメージの大半は師匠の音なのですが、レッスンで目の前で吹いてもらった音よりもホールで聴く音のほうが柔らかく、響きのある音だと、演奏する場所によってだいぶ差があることをなんとなく知るようになっていました。
そして月日は経ち、音大の卒業が近づいた頃、師匠からまさかのN響のお仕事を頂いたんです。
高校生の時からずっと憧れていたN響の、あの舞台に自分が立てるという喜びと緊張と不安と興奮と譜読みでいろいろと大変だったことを今でも覚えていますが(いきなりマーラーの6番だったので非常に覚えています)、ありがたいことにそれからの数年間、いくつものN響のステージに上がらせていただきました。毎回毎回世界的に有名な指揮者やN響の凄まじいレベルの高さに圧倒されるばかりでしたが、本当に勉強になることばかりで、感謝しかありません。
そして今回の音色の話ですが、N響の練習場での合わせの時、周りから聴こえてきた金管のサウンドが、NHKホールの客席で聴きなれていた音とだいぶ違ったことに、驚きました。
言い方が正しいかわかりませんが、トロンボーンもホルンも想像以上に金属的でバリバリ鳴っている、という印象です。客席からは、とても澄んだ心地よい、どちらかというとうるさくない柔らかな音色という印象だったのですが、実際はかなり違う。しかしこの音はとても心地良く、身体の中で共鳴し、存在感のある地に足がついた響きで、これが金管の音なのか!と、初めて本物に出会ったような気分でした。
後日この公演がテレビで放送されたのを聴くと(当時は「N響アワー」という番組が毎週ありました)、やはり高校生の頃から知っているN響のサウンドそのものでした。この音色のギャップは、リハの段階から中に入らないとわからないことですから、とても貴重な経験をさせてもらいました。
ですから、僕のレッスンでツボに当たった音はこんな音です!と実際に吹いて聴いてもらったり、その音を生徒さんが実際に出せるようになっても、それが結果として違和感になってしまうのは、ある意味仕方のないことかもしれません。信じてもらうしかないのです。それは言い換えれば、「ツボに当たった音」で吹いている(吹ける)アマチュアの人が少ないからとも言えるでしょう。
楽器選定をする上でも、この「ツボ」を知ることで自分に合うかどうかの選定基準になりますし、音色だけにとどまらずピッチの安定や音をはずさないためにも必要なことです。
ツボに当てるには、奏者(人間)が楽器を従わせるような主従関係になってはいけません。トランペットの本来持っている力や魅力が発揮できる吹き方を、人間がしてあげなければならないのです。
それを僕は「トランペットと対話する」と呼んでいますが、「もっと鳴りやがれコノヤロ!ピッチ悪い楽器だな!」などと楽器に対して愛情のない言葉を浴びてせいる人は、その楽器のことを理解しようとしていないだけです。これでは楽器との良い関係は築けません。本当はその楽器も、正しく吹いてあげればきっと良い音で鳴ってくれるんです。
ということで今回はトランペットの音色について書きました。
次回も同じテーマで、今度は「音色は何で決まるのか」について書く予定です。引き続きご覧ください。
それでは、また来週!
今回は「音色」についてです。
《トランペットの音色とは?》
みなさんは「トランペットの音色とは?」と聞かれてどんなイメージを持ちますか?パリパリキンキンな音やホンワカした柔らかい音色やキラキラ輝く音色など、文字で表すのは難しかもしれませんが、きっと頭の中ではイメージした音色が鳴っているかと思います。
僕にももちろんあります、トランペットの音色。しかし、奏者によっても、ジャンルによっても、様々な場面でいろいろなトランペットの音色を聴いています。そう、みなさんもイメージする「音」はひとつではないと思うのです。
しかし、僕の場合は、中学校の吹奏楽部でトランペットを始めたばかりの頃は、トランペットの音と言えば横浜スタジアムで鳴り響いていた応援団のトランペットだけでした。当時、すごい憧れていました。
そして部活でいろんな曲を演奏することになって、参考音源としてプロ吹奏楽団のCDを聴き、ニューサウンズでめちゃくちゃカッコイイソロを吹いていた数原晋さんやエリックさんの音を知り、今昔のビッグバンドやジャズの音を知り、スカパラのNARGOさんの音を聴き、ポップスで演奏しているホーンセクションの音を知り、フィリップジョーンズの音を知り、世界中のオーケストラの音を知り、一流の様々なクラシックソリストの音を知り、、、。
そうやってたくさんの音を知ることで、自分の中にある「音色の(イメージの)引き出し」がどんどん増えていきました。なんとなくですが、音楽ジャンルやスタイルによっておおよその吹き方の違いや音色の違いを感じられるようになってきました(なぜこんなに違うのか、どうすればこんなに変わるのか、ということはわかりませんでしたが)。
中には「この音、好きになれないな」と直感的に思う音もありますが、しかしそれも「トランペットの音」には変わりありません。すべてが自分に影響を与えてくれたトランペットの音色です。
そうしているうちにだんだんと「(この場面では)こんな音出したい!」「この人の音、出したい!」と思うようになり、しかし実際はそんな音は到底出せなくて(方法がまったくわからない)...なんて経験をしながら、ひとまず今の自分の音があるのだな、と思います。
たくさんのトランペットの音色に出会うことは、自分の音色の引き出しを増やすための大切な「素材」です。みなさんはどのくらいの「音」を知っていますか?
《ツボに当たった音、素の音は汚い音?》
このブログで度々出てくる「音のツボ」という言葉、これは「その楽器が持つ一番鳴るポイント」のことを指します。
どんな楽器にでも(管楽器専門店で扱っているメーカーのきちんとした楽器であれば)ツボは存在していて、きちんとツボに当てて鳴らせた時、その楽器の持つ本来の「素の音」がわかります。
しかし、なかなかこの「ツボに当たった時の素の音」というのを理解して鳴らせられる人というのは少ないように感じます。レッスンでも時間をかけてしっかりと鳴らす練習を必ずしています。しかし「素の音」を出した時、「え?こんな音でいいの?」と若干疑問を感じる方も少なくありません。
それにはいくつか理由があると思うのですが、まず、ツボに当たった素の音は結構な金属音です。わざと見つけやすいように大きめな音量でしっかり吹いてもらうために余計そう感じるのだろうと思いますが、それが「汚い音」「荒い音」「うるさい音」と感じる方もいます。
最近のトランペット奏者はプロアマ問わず「やわらかく」「優しく」「軽く」音を出している人、そういった音を求める人がとても多く、それが結果として「良い音」の傾向になってきているように感じるので、金属的で響の強い「ツボに当たった音」を出すことに違和感があるのだろうと思います。この話はまた後ほど。
こんなことを言っている僕も音大生の頃まではずっと柔らかい音ばかりをイメージして吹いていました。柔らかい音は太い音であり、これが自分の個性であると思っていました。しかし今思えば単に「ツボに当たらずにこもっていた」だけなのだろうと思います。息の通り抜けが悪いのを腹圧で強引に押し出してごまかしていました。その証拠にツボに当たらないから音をよくはずしていたし、ピッチも悪かったんです。あれは良くなかった。
その発想が大きく変わるきっかけとなったのが、卒業間近に初めてプロオケに乗せてもらったことです。
《プロオケで知った「ツボに当たった音」》
僕は高校生の頃に初めて自分のお金でオーケストラのコンサートに行きました。同じ吹奏楽部だった同級生の友人がオケのことがとても詳しくて、横浜からわざわざ渋谷までN響の定期公演に連れて行ってもらったのがきっかけです。なぜN響だったのかというと、学生席はチケットがとても安く、当日でもほぼ会場で買えたこともそうなのですが、高校一年生で習い初め、今でも非常にお世話になっている師匠がN響の首席奏者だったことが最大の理由です。
NHKホールのステージから一番遠くて高い(値段ではない)席からは自分の師匠が豆粒くらいにしか見えませんでしたが、それでもオーケストラのサウンドは圧倒的で、大興奮。こんなすごいオケでこんなすごい演奏をしている人に自分は習ってるんだ、という嬉しさもあって、暇さえあればN響の定期公演に通うようになりました。
音大に行くようになってからは、N響コンサートへ通う頻度も上がり、師匠が出ている定期公演で、金管が活躍する作品の時はほぼ全て行ったと思います。
僕のトランペットの音のイメージの大半は師匠の音なのですが、レッスンで目の前で吹いてもらった音よりもホールで聴く音のほうが柔らかく、響きのある音だと、演奏する場所によってだいぶ差があることをなんとなく知るようになっていました。
そして月日は経ち、音大の卒業が近づいた頃、師匠からまさかのN響のお仕事を頂いたんです。
高校生の時からずっと憧れていたN響の、あの舞台に自分が立てるという喜びと緊張と不安と興奮と譜読みでいろいろと大変だったことを今でも覚えていますが(いきなりマーラーの6番だったので非常に覚えています)、ありがたいことにそれからの数年間、いくつものN響のステージに上がらせていただきました。毎回毎回世界的に有名な指揮者やN響の凄まじいレベルの高さに圧倒されるばかりでしたが、本当に勉強になることばかりで、感謝しかありません。
そして今回の音色の話ですが、N響の練習場での合わせの時、周りから聴こえてきた金管のサウンドが、NHKホールの客席で聴きなれていた音とだいぶ違ったことに、驚きました。
言い方が正しいかわかりませんが、トロンボーンもホルンも想像以上に金属的でバリバリ鳴っている、という印象です。客席からは、とても澄んだ心地よい、どちらかというとうるさくない柔らかな音色という印象だったのですが、実際はかなり違う。しかしこの音はとても心地良く、身体の中で共鳴し、存在感のある地に足がついた響きで、これが金管の音なのか!と、初めて本物に出会ったような気分でした。
後日この公演がテレビで放送されたのを聴くと(当時は「N響アワー」という番組が毎週ありました)、やはり高校生の頃から知っているN響のサウンドそのものでした。この音色のギャップは、リハの段階から中に入らないとわからないことですから、とても貴重な経験をさせてもらいました。
ですから、僕のレッスンでツボに当たった音はこんな音です!と実際に吹いて聴いてもらったり、その音を生徒さんが実際に出せるようになっても、それが結果として違和感になってしまうのは、ある意味仕方のないことかもしれません。信じてもらうしかないのです。それは言い換えれば、「ツボに当たった音」で吹いている(吹ける)アマチュアの人が少ないからとも言えるでしょう。
楽器選定をする上でも、この「ツボ」を知ることで自分に合うかどうかの選定基準になりますし、音色だけにとどまらずピッチの安定や音をはずさないためにも必要なことです。
ツボに当てるには、奏者(人間)が楽器を従わせるような主従関係になってはいけません。トランペットの本来持っている力や魅力が発揮できる吹き方を、人間がしてあげなければならないのです。
それを僕は「トランペットと対話する」と呼んでいますが、「もっと鳴りやがれコノヤロ!ピッチ悪い楽器だな!」などと楽器に対して愛情のない言葉を浴びてせいる人は、その楽器のことを理解しようとしていないだけです。これでは楽器との良い関係は築けません。本当はその楽器も、正しく吹いてあげればきっと良い音で鳴ってくれるんです。
ということで今回はトランペットの音色について書きました。
次回も同じテーマで、今度は「音色は何で決まるのか」について書く予定です。引き続きご覧ください。
それでは、また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 08:06, 荻原明(おぎわらあきら), イメージ
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2015.08.18 Tuesday
指摘のジレンマ
みなさんこんにちは!
このブログは基本的に読んで下さっている方にトランペットを演奏する上で参考になる知識やテクニック、音楽的な話を主に書いていますが、今回の記事は具体的な結論や解決策が僕の中では出ていないお話をさせていただきます。悩みを聞いて下さい、的な?
でも、該当する方も結構いるのではないか、と思うのです。
《自分に都合よく解釈をしてしまおう》
以前このブログに「複数の指導者に教わる、ということ。(クリックで記事が読めます)」という記事を書きました。
詳しくは記事を読んでいただければと思いますが、ざっくり言うと「言い方や考え方が違っても、結果として行き着く先は同じである」「指導者は教えている人に上手くなってもらおうとしている(下手くそにしてやろうなんて思っている指導者は誰もいない)」と言った内容です。
気がつけばもう8年も前の記事ではありますが(ラッパの吹き方ブログはもうそんなに経つのか!)、今も考えは変わりません。指導者が100人いれば100通りの考えがあって当然なんです。だから教わる人はその指導者が何を伝えようとしているのかを見抜き、演奏に反映することが必要になるのですが、もっと簡単に言えば「自分なりに都合よく解釈すればそれで良い」ということです。
例えば、ある指導者から「トランペット、そこうるさい!」と言われたとします。
うるさいと言われるとほとんどの人が「音量が大きいのだろう」と解釈をしてしまいます。そこで一生懸命音量を落とそうと頑張ります(fと書いてあるのに音量を落とさなければならない矛盾を感じながら)。でもまだトランペットうるさいと言われるので、どんどん音量を落として、遂には吹いているのかどうなのかわからないくらいまで落とすことになってしまいました。
トランペット奏者からすると、「あの指導者はトランペットの音が嫌いなんだ」という印象を持ってしまい、なんだか指導者とコミュニケーションが上手くいかなくなってきて、そのうち「あの指導者、好きじゃないなあ」という感情を持つようになってしまうとか。
こんな話、僕のレッスンでもよく聞きます(僕についてじゃないですよ、多分(笑))。
しかし、トランペットの音が好きとか嫌いとか言う前に楽譜にはパートとして存在しているのですから、「聴こえないように吹く」なんて正しいはずがありません。
これはある意味、指導者との「バッドエンド」の結末なんです。
では、どこでこんな結末になってしまったのか。
答えは一番最初の「トランペット、うるさい」の奏者側の解釈です。
奏者は「うるさい」と言われてとっさに「音量」を意識してしまいました。しかし、指導者の求めていることは音量ではなかったのかもしれません。
一番考えられるのが「音色」「音質」です。さらに言うと、「この作品(場面)にそぐわない音色」とか「この団体の中であなたのトランペットの音は異質に感じる」とか。そういう意味だったのかもしれません。
他にも、演奏解釈や色付け(歌い方やクレッシェンドをむやみにつけるなど)が他の奏者と噛み合っていないとか、いろいろ考えられます。
音楽という物体のないものについて「言葉」で相手に伝えることはとても難しいことです。日本語どうしで会話をしているのに、どこか噛み合っていないと感じることが多いのは、その人の持っている語彙力やチョイスした単語、ニュアンスがみんな違うからなんです。
単純に音楽での「柔らかさ」を相手に伝えようとするだけでも「綿のように」「ふんわりと」「重さがないような」「宙に浮かんだ」「ぬいぐるみのように」「愛らしく」「心があったまるような」「肉まんみたいな」「あんまんみたいな」「ピザまん…など、いくらでも表現しようと思えばできてしまいます。これを自分の目の前でジェスチャーや表情、声色、声量なども組み合わさって伝えられるわけです。
なので、受け取る側は、それらの言葉から「この人は何を求めているのだろう」とまず考え、正解かどうかはわからないけど自分の中で一つの答えを見つけて、相手にしっかりと伝わるように表現(演奏)する、というやりとりが必要になってきます。もう一度確認しますと、
『指導者からの指示→指導者が言いたかったことを自分の言葉で解釈をする→それを精一杯表現する』
この流れが必要になります。
僕自身も音大の頃、これに大変苦しみました。先生によって言うことが違う!と。しかし、自分に都合良く解釈すると、すべての先生の言うことがどんどん自分の引き出しとしてストックされていくのが感じられて、悩むことなくたくさんのことを吸収することができました。
《指摘のジレンマ》
上記のお話は指導を受ける側の受け取り方を柔軟にすれば解決することでしたが、レッスンで解決できないこと、というのがあるんです。それは
「正反対の指摘をされた時」
です。2人の指導者がまったく逆の奏法や指示を出した時なのですが…。実例を挙げましょう。
ある生徒さんは、吹奏楽部でトランペットを吹いていて、僕のレッスンにも来ています。
一番最初に生徒さんの吹き方を見た時、肘を高く上げ(脇を広げて)演奏していたので、「肘を上げる動きは体のいろいろなところを絞めつけてしまう」と指摘し、脇を広げず、楽な状態で楽器を構えるように伝えました。
そして2週間ほど空いて次のレッスン。
また同じ姿勢に戻ってしまっていました。戻ってしまったからには伝えなければなりませんから、また同じことを指摘し、一番負担のない姿勢にしてもらおうと思ったところで生徒さんから一言、
「部活では脇を広げるように言われているんです。どうしたらいいのでしょう」
これです、これなんです。
生徒さんの所属している部活の指導者(顧問の先生?)、もしくは先輩、それか部の伝統()のいずれかの指示により「肘を高く掲げよ!」というお導きをされているようなのです。
レッスンは月に2回。部活動は週に数回。このペースですから、僕の言葉は響かなくて当然です。
いや、やろうと思えばできますよ。力ずくになっちゃいますが、生徒さんに「こっちのほうが正しいんだから言うこと聞けばいいんだ!」とか「そんな部活やめてしまえ!」とか、その生徒さんの学校に電話でもして、顧問の先生に直談判するとか。でも、そんなのやりたくありません。
余談ですが、将来本気で音楽家を目指そうとしている子ども、特に弦楽器の世界では、オーケストラ部やアマチュアオーケストラに入れさせない、なんて良くある話です(音大のオーケストラでさえ本当は参加させたくないと言う先生もいます)。それは弾き方に変なクセをつけてしまうからで、結局このお話を未然に防ぐ対策をとっているんですね。
一流の音楽家に育てるために一人の先生が全責任を持ってレッスンをするのであれば、勝手にやってもらってて構いませんが、僕のところに来ている生徒さんは、トランペットを吹くのが楽しいから、もっと上手になりたいから、と純粋に楽しみたい気持ちで部活もレッスンも受けているわけですから、そこまでする必要はもちろんないわけで。
でも…やはりもどかしいですよね。
一講師として、自分にとってベストである吹き方をしてもらいたいのは事実。その肘を上げる姿勢でどれだけ体に負担をかけてしまっているかを理解している者としては、見て見ぬふりをし続けるのはとても苦しいのです。上達してほしいのに、そのアドバイスができないんですよ。すごいストレスです。
でも生徒さんにそんなことを言っても、生徒さん自身が悩んでしまいますし、かわいそうです。仮に僕の言っていることを理解してくれて、実践してくれても、部活に戻ればきっとすぐさま「肘が下がってるぞ!」と指摘されてしまことでしょう。それはとてもかわいそう。
このような、生徒さんが板挟みになってしまう恐れは、いろいろなところで常に発生しています。僕のレッスンでもいくつもあります。
しかし例えば、僕ではない指導者の言うことが理にかなっていて、きちんとした根拠を持っているのであれば、僕はそれを推奨し、それを補強するようなレッスンをすることができます。僕とはやり方が違っても、生徒さんがそれをスムーズに受け入れられるのであれば、いちいち僕の考えを押し付け、やり直させる必要はないのですから。
問題は「明らかにそれはダメだろう、間違っているだろう」ということを根拠もなく押し付けている謎の環境に、どう向き合っていけばいいのか、ということなんです。
世の中の教える側の人、音楽に限らずこういったことはきっとたくさんあると思うのですが、みなさんはどのように対処をされているのだろうか、と気になって仕方ありません。
何かいいアドバイスがあれば教えてください。
そして、もし今回の話のように板挟み状態になってしまったいる方がいたら、自身で考え、どちらが理にかなっているのか。根拠がしっかりとしていて、明確なビジョンがイメージできるのか試してみてください。その上で、間違っていると思われることについて意見ができるのであれば、それを推奨している大元(おおもと)と向き合ってもらえたら、と思います。「この姿勢は負担がかかって良くないと思います(そしてこういった姿勢が良いと思うのです。理由は…)」と言えたら最高ですよね。とても難しいことですが。
ということで、今回は結論や解決策のないお話をさせてもらいました。
また来週!
このブログは基本的に読んで下さっている方にトランペットを演奏する上で参考になる知識やテクニック、音楽的な話を主に書いていますが、今回の記事は具体的な結論や解決策が僕の中では出ていないお話をさせていただきます。悩みを聞いて下さい、的な?
でも、該当する方も結構いるのではないか、と思うのです。
《自分に都合よく解釈をしてしまおう》
以前このブログに「複数の指導者に教わる、ということ。(クリックで記事が読めます)」という記事を書きました。
詳しくは記事を読んでいただければと思いますが、ざっくり言うと「言い方や考え方が違っても、結果として行き着く先は同じである」「指導者は教えている人に上手くなってもらおうとしている(下手くそにしてやろうなんて思っている指導者は誰もいない)」と言った内容です。
気がつけばもう8年も前の記事ではありますが(ラッパの吹き方ブログはもうそんなに経つのか!)、今も考えは変わりません。指導者が100人いれば100通りの考えがあって当然なんです。だから教わる人はその指導者が何を伝えようとしているのかを見抜き、演奏に反映することが必要になるのですが、もっと簡単に言えば「自分なりに都合よく解釈すればそれで良い」ということです。
例えば、ある指導者から「トランペット、そこうるさい!」と言われたとします。
うるさいと言われるとほとんどの人が「音量が大きいのだろう」と解釈をしてしまいます。そこで一生懸命音量を落とそうと頑張ります(fと書いてあるのに音量を落とさなければならない矛盾を感じながら)。でもまだトランペットうるさいと言われるので、どんどん音量を落として、遂には吹いているのかどうなのかわからないくらいまで落とすことになってしまいました。
トランペット奏者からすると、「あの指導者はトランペットの音が嫌いなんだ」という印象を持ってしまい、なんだか指導者とコミュニケーションが上手くいかなくなってきて、そのうち「あの指導者、好きじゃないなあ」という感情を持つようになってしまうとか。
こんな話、僕のレッスンでもよく聞きます(僕についてじゃないですよ、多分(笑))。
しかし、トランペットの音が好きとか嫌いとか言う前に楽譜にはパートとして存在しているのですから、「聴こえないように吹く」なんて正しいはずがありません。
これはある意味、指導者との「バッドエンド」の結末なんです。
では、どこでこんな結末になってしまったのか。
答えは一番最初の「トランペット、うるさい」の奏者側の解釈です。
奏者は「うるさい」と言われてとっさに「音量」を意識してしまいました。しかし、指導者の求めていることは音量ではなかったのかもしれません。
一番考えられるのが「音色」「音質」です。さらに言うと、「この作品(場面)にそぐわない音色」とか「この団体の中であなたのトランペットの音は異質に感じる」とか。そういう意味だったのかもしれません。
他にも、演奏解釈や色付け(歌い方やクレッシェンドをむやみにつけるなど)が他の奏者と噛み合っていないとか、いろいろ考えられます。
音楽という物体のないものについて「言葉」で相手に伝えることはとても難しいことです。日本語どうしで会話をしているのに、どこか噛み合っていないと感じることが多いのは、その人の持っている語彙力やチョイスした単語、ニュアンスがみんな違うからなんです。
単純に音楽での「柔らかさ」を相手に伝えようとするだけでも「綿のように」「ふんわりと」「重さがないような」「宙に浮かんだ」「ぬいぐるみのように」「愛らしく」「心があったまるような」「肉まんみたいな」「あんまんみたいな」「ピザまん…など、いくらでも表現しようと思えばできてしまいます。これを自分の目の前でジェスチャーや表情、声色、声量なども組み合わさって伝えられるわけです。
なので、受け取る側は、それらの言葉から「この人は何を求めているのだろう」とまず考え、正解かどうかはわからないけど自分の中で一つの答えを見つけて、相手にしっかりと伝わるように表現(演奏)する、というやりとりが必要になってきます。もう一度確認しますと、
『指導者からの指示→指導者が言いたかったことを自分の言葉で解釈をする→それを精一杯表現する』
この流れが必要になります。
僕自身も音大の頃、これに大変苦しみました。先生によって言うことが違う!と。しかし、自分に都合良く解釈すると、すべての先生の言うことがどんどん自分の引き出しとしてストックされていくのが感じられて、悩むことなくたくさんのことを吸収することができました。
《指摘のジレンマ》
上記のお話は指導を受ける側の受け取り方を柔軟にすれば解決することでしたが、レッスンで解決できないこと、というのがあるんです。それは
「正反対の指摘をされた時」
です。2人の指導者がまったく逆の奏法や指示を出した時なのですが…。実例を挙げましょう。
ある生徒さんは、吹奏楽部でトランペットを吹いていて、僕のレッスンにも来ています。
一番最初に生徒さんの吹き方を見た時、肘を高く上げ(脇を広げて)演奏していたので、「肘を上げる動きは体のいろいろなところを絞めつけてしまう」と指摘し、脇を広げず、楽な状態で楽器を構えるように伝えました。
そして2週間ほど空いて次のレッスン。
また同じ姿勢に戻ってしまっていました。戻ってしまったからには伝えなければなりませんから、また同じことを指摘し、一番負担のない姿勢にしてもらおうと思ったところで生徒さんから一言、
「部活では脇を広げるように言われているんです。どうしたらいいのでしょう」
これです、これなんです。
生徒さんの所属している部活の指導者(顧問の先生?)、もしくは先輩、それか部の伝統()のいずれかの指示により「肘を高く掲げよ!」というお導きをされているようなのです。
レッスンは月に2回。部活動は週に数回。このペースですから、僕の言葉は響かなくて当然です。
いや、やろうと思えばできますよ。力ずくになっちゃいますが、生徒さんに「こっちのほうが正しいんだから言うこと聞けばいいんだ!」とか「そんな部活やめてしまえ!」とか、その生徒さんの学校に電話でもして、顧問の先生に直談判するとか。でも、そんなのやりたくありません。
余談ですが、将来本気で音楽家を目指そうとしている子ども、特に弦楽器の世界では、オーケストラ部やアマチュアオーケストラに入れさせない、なんて良くある話です(音大のオーケストラでさえ本当は参加させたくないと言う先生もいます)。それは弾き方に変なクセをつけてしまうからで、結局このお話を未然に防ぐ対策をとっているんですね。
一流の音楽家に育てるために一人の先生が全責任を持ってレッスンをするのであれば、勝手にやってもらってて構いませんが、僕のところに来ている生徒さんは、トランペットを吹くのが楽しいから、もっと上手になりたいから、と純粋に楽しみたい気持ちで部活もレッスンも受けているわけですから、そこまでする必要はもちろんないわけで。
でも…やはりもどかしいですよね。
一講師として、自分にとってベストである吹き方をしてもらいたいのは事実。その肘を上げる姿勢でどれだけ体に負担をかけてしまっているかを理解している者としては、見て見ぬふりをし続けるのはとても苦しいのです。上達してほしいのに、そのアドバイスができないんですよ。すごいストレスです。
でも生徒さんにそんなことを言っても、生徒さん自身が悩んでしまいますし、かわいそうです。仮に僕の言っていることを理解してくれて、実践してくれても、部活に戻ればきっとすぐさま「肘が下がってるぞ!」と指摘されてしまことでしょう。それはとてもかわいそう。
このような、生徒さんが板挟みになってしまう恐れは、いろいろなところで常に発生しています。僕のレッスンでもいくつもあります。
しかし例えば、僕ではない指導者の言うことが理にかなっていて、きちんとした根拠を持っているのであれば、僕はそれを推奨し、それを補強するようなレッスンをすることができます。僕とはやり方が違っても、生徒さんがそれをスムーズに受け入れられるのであれば、いちいち僕の考えを押し付け、やり直させる必要はないのですから。
問題は「明らかにそれはダメだろう、間違っているだろう」ということを根拠もなく押し付けている謎の環境に、どう向き合っていけばいいのか、ということなんです。
世の中の教える側の人、音楽に限らずこういったことはきっとたくさんあると思うのですが、みなさんはどのように対処をされているのだろうか、と気になって仕方ありません。
何かいいアドバイスがあれば教えてください。
そして、もし今回の話のように板挟み状態になってしまったいる方がいたら、自身で考え、どちらが理にかなっているのか。根拠がしっかりとしていて、明確なビジョンがイメージできるのか試してみてください。その上で、間違っていると思われることについて意見ができるのであれば、それを推奨している大元(おおもと)と向き合ってもらえたら、と思います。「この姿勢は負担がかかって良くないと思います(そしてこういった姿勢が良いと思うのです。理由は…)」と言えたら最高ですよね。とても難しいことですが。
ということで、今回は結論や解決策のないお話をさせてもらいました。
また来週!
当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。
at 05:03, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方
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