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吹奏楽部でのパートリーダーの役割








みなさんこんにちは!

今回も頂いたご質問にお答えしようと思います。前回の「口を動かさないように」指摘された方の質問の続きなのですが、質問内容が大きく変わっていたので、分けさせて頂きました。

/////////////////////////////////////////////////
来年度から先生にパートリーダーをやれと言われてパートリーダーを任されました。
パート練習では基礎練習をパートのみんなで一緒にした方がいいのですか?それでも個人で基礎練習は行った方がいいのでしょうか?
パートで基礎練習を行なう場合はどういうメニューを立てればいいのでしょうか?
/////////////////////////////////////////////////


このご質問は昨年度に頂いたので、すでにリーダーさんを務めていることと思いますが、このパートリーダーという立場、とてもアバウトな存在ではないか、と思います。学校によっても立場が全然違うと思いますし、部員数によってもウエイトが変わりますよね。

今回は一般的なパートリーダーの立場について書いてみたいと思います。



《先輩になると変わる意識》
部活動で先輩になると、意識が変わりますよね。後輩ができるので、いろいろ教えてあげよう、教えなきゃ、という「責任」が生まれます。そして部活全体を良い方向へ進めようという気持ちを持つ人も増えてくると思います。
そういった責任感を持つことはとても素晴らしいことで、決して無理をする必要はありませんが、自分のできる範囲で部活を良くしていくためにできることを考えて、実行して欲しいと思います。

ただ、やる気がみなぎりすぎて、自分の立場がわからなくなってしまうと、自分自身も大変疲れてしまいますし、何より後輩を含め、周りの人たちが困惑してしまうかもしれません。

それが今回頂いた質問にも感じられます。


《パートリーダーは何者?》
パートリーダーはその名前からも「パートの代表者」「パートをまとめる役割」とイメージできます。しかしそれはあくまでも「事務的」な立場である場合がほとんどではないでしょうか。例えば顧問の先生からの伝達事項をパート内に伝えることや、リーダー会議(というものがあるのだとしたら)で決まったことを実行に移し、後輩にも動いてもらうとか。そういったお仕事がメインなのではないか、と思うのです。

しかし、この質問にもあるように、多くの部活動では「リーダー=音楽的指導者」という役割の重要度が高くなっているように思います。要するに「パート練習」をまとめる人、という立場からさらに「パートの音楽的レベルを向上させる役割」にまで責任が及んでしまっているのです。


《パートリーダーは音楽的指導者ではない》
これはかなりの負担です。社会人バンドやオケで、音楽経験が高い方がいらっしゃる場合(音大卒業生など)だったら、ぜひともその方のもと、レベルアップをはかるのも悪くないと思いますが、部活動はせいぜい後輩よりも2年そこそこの経験しかありません。音楽的指導をするにはあまりにも難しいのではないかと思うのです。
それは、前回の記事でも書いたように、「指摘」はできるかもしれないけれど、それに対する「明確な根拠」や「ケア」ができないと、混乱を招く可能性があるからです。


《パートリーダーも奏者のひとり》
ですから、ご質問に回答するのであれば、パートリーダーであっても、パート練習に絶対に参加します。楽曲練習であっても、基礎パート練習であっても同様です。それは、パート練習と合奏でのバランスが変わってしまうのももちろんですが、リーダーさんが練習の時吹かずに、同じレベル、同じスタイルをキープするのは、かなり難しいことだと思うからです。

そしてその時、リーダーさんは音楽的指導者ではありませんから、「方向性」を定めたり「目標」や「課題」を持たせることに終始すると良いと思います。課題などは、指揮者や先生からいろいろな場面で出されているはずですから、それができるようになるために、パート内の人たちみんなの達成度などを見てあげて、今何をできるようにすべきか、など目標を明確にしてあげたり、やる気をおこさせてあげたり、そういった支えになってあげられると良いと思います。

そして、責任感が強い方に多いのですが、パートリーダーさん自身が(もしくは先輩だからと言って)誰よりも完璧でなければならないと、あまり強く思わないようにしましょう。演奏レベルが後輩たちの手本でなければならないと思うと、変なプレッシャーを持ってしまいますが、演奏レベルに関しては先輩後輩関係なく「みんなで上手になろう」という姿勢で良いんだと思います。ですから、仮に後輩のほうが上手だな、と思えばそれを自分自身に認めてあげて、プライドは捨てて後輩に教わるとか相談してみるとか、そういう場面があったって構わないと思うのです。

パート内をしっかりまとめてくれる頼もしい先輩であれば、音楽的レベルで比べるようなことは決してないと信じています。


《パート内での基礎練習メニュー》
そしてもうひとつご質問にあった「パート内での基礎練習メニュー」についてですが、内容は何でも良いと思います。大切なのは「その練習をする理由(課題)」「全員での評価」「次の目標」を持つことです。
なんとなく教本に書いてあるからやってみて、「…どう?」「…いいとおもいます」「そう…じゃあ次…」みたいな収穫のない時間にしない、ということです。
今のメンバーでもっと上手になりたいこと(先生からいつもどんな指摘を受けるか思い出してみましょう)をいくつも挙げてみて、その中からひとつ課題を決め、それを解決するための練習方法(教本から探しても良いでしょう)を決めて練習をし、全員で今の演奏がどうだったのか話し、レベルを高めていきます。時には、第三者(他のパートの人や先生)に聴いてもらい、評価してもらいます。
こういった練習を常に繰り返していくことが大切だと思います。

また、これとは別に事前にウォームアップを必ず個人で完了させていることも大事なことですから、部活でいきなり集合して基礎パート練習だ!と、始めてしまっても良いことは何もありませんから注意しましょう。

ということで、今回はパートリーダーさんの立場についてを中心に書いてみました。

それでは、また来週!


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at 08:50, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方

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指導者は根拠を示して、ケアを忘れずに。








みなさんこんにちは!

今週は最近頂いたご質問にお答えしていきます。

/////////////////////////////////////////////////
顧問の先生はプロではないのですがアマチュアとして一般の吹奏楽団で活動しています。
その先生にこの前自分の奏法をみて口が動きすぎと言われてそれを治すように努力しているのですが、それからここ最近吹けなくなってしまいました。
先生には舌を使って吹けと言われるのですが具体的にどうすればいいかわかりません。
トランペットを初めて6年目の高1なんですけど、今までは舌というのを意識せずに口を意識していました。
それで音域もハイDくらいまでは曲で使えていましたが、先生に言われた舌を意識して口を意識せずにいたらハイB♭の下のFまでしかでません。
こういう状態はどうすればいいんでしょうか?
/////////////////////////////////////////////////





《根拠を示せないなら無視》
「口が動きすぎる」という表現がいまいちわからないので、もし的外れなことを言っていたら申し訳ないのですが、それより前に書かなければならないことがあります。

まず、アンブシュアへの指摘に関しては言う側も受け取る側も、注意深くいる必要があります。アンブシュアはこれまでの記事でもたくさん書いてきた通り、見た目に美しいアンブシュアが、イコール正しいアンブシュアだとは言いきれず、ましてや一流の奏者のアンブシュアが、万人にふさわしいわけではない、ということをまず必ず覚えておいて欲しいのです。それは、人によって骨格や歯並び、筋肉のつきかたが違うからで、結果として奏者の数だけふさわしいアンブシュアがあるということです。

そして、この口が動きすぎるという点に関しても同様です。この指導者がアマチュアかプロかはこの際関係ありません。大切なのは「口が動きすぎる」ということがなぜ良くないのか、その明確な理由を伝えたのか、なんです。もしも、「自分の知っている(尊敬している/手本にしている)トランペット奏者が「そんな吹き方してないから」という理由(しかも見た目に限定して)だけで言ったのだとしたら、聞き入れるべきではありません。

指導する人は、根拠を明確に示せて、自らが納得していることを伝えなければならず、そして教わる側も何でもかんでも鵜呑みにしないことです。情報過多の今、トランペットの奏法に限らず、いろんな人がいろんなことを言っています。それらを信じる信じないは個人の自由ですが、根拠のないものを信じて、それを誰かに押し付けるのは(気付ければの話ですが)、良いことではないと思います。
ですから、指摘されたことに関しては心に留めておき、個人練習の時間にじっくり検証してみましょう。とりあえずやってみることは悪くないのですが、それにはどんな効果があるのか、そしてリスクはないのか、そういったことも考えながら検証してみると良いのでは、と思います。テクニックや練習方法に関してならば、どんどん表現の引き出しを増やしていけるので、教わったことを身につけようとする姿勢は悪くありませんが、アンブシュアを直せだとか、根拠なく「その吹き方はダメだ」と言ってくる、楽器を吹く根底にある部分を直させようとする指摘だけは注意深く身構えているべきだと、そう思います。

今回質問を送った頂いた方について言えば、吹いている時に口が動いてしまうという現象は、他の多くのトランペット奏者には見られない(もしくは表面的に見えないだけかも)ことかもしれません。実際にこの方の吹き方を見ていないので明確にはわかりませんが、確かに口が動いてしまう吹き方というのは、いろいろとリスクがあるように思います。しかし、この質問を送って頂いた方にとってそれは「必要なもの」なのかもしれません。ですから、「一般的ではないから」という理由だけで一方的に禁止してしまうのはやはり危険です。そして、これも質問の文章だけではわからないのですが、この指摘をした指導者は、では、どのようにすべきか、口が動いてしまうリスクと、動かさないで吹くための方法などの「ケア」がどれくらいあったのかどうかがもうひとつ大切な点です。指摘だけだったら誰でもできます。「指導」というのはその先のことですからね。この質問者も、結果「動かさないように動かさないように」と考えてしまい、これまでの自由な演奏ができなくなってしまったのですから。指導者によるケアが足りないように思います。奏法に関して「◯◯しない(してはいけない)」という禁止の意味が強い言葉を生徒さんに言うことは、経験上あまりいい効果を発揮しないと感じています。


《舌を使うことに関して》
口を使わずに舌を使うということに関しても、ご質問の文章だけだと若干わかりにくいのですが、多分、ざっくりと言えば「演奏上のコントロールは舌で行うべき/口、口周辺の筋肉でコントロールすべきではない」という指摘なのでは、と考えます。
僕自身も舌の動きによる音色の変化、音の高低の変化を、おおいに使いましょうと言っているひとりなので、その点は納得いきます。

ただ、ちょっと厳しいことを言ってしまうと思われたらごめんなさい。この質問を送って頂いた方、自分自身では、その指導者が言うことの根拠や理由、具体的な方法を理解した上で実践をしているでしょうか。文章からしか内容がわからないので憶測になってしまって申し訳ないのですが、少々受け身の姿勢を感じます。言われたことをしているだけ、というか。そしてその指摘をされるまでの吹き方に関してもなぜそういう吹き方をしていたのかをしっかり考えていたのかな、とも思うのです。もし根拠のある明確な理由のもとにその時の吹き方をしていたのだとしたら(その根拠は正解不正解ではなく、ちゃんと理由を持って自分で考えてやっていたか、ということです。将来的にそれが違っていた、というのは全然問題ありません)、それまでと違う吹き方を指摘されても、「いや、私にはこの吹き方がふさわしいのです」というある種のプライドを持った上で「この指導者はなぜそういうことを言ったのだろう」と考え「自分にもそれがプラスになることは(一部分でも)あるかな」と思い、自分の演奏の中に取り入れていく、こういった流れにしていくほうが、奏法で悩むことは少なくなると思います。
そして、それらの奏法について、もしわからないのならば、指摘した指導者に納得がいくまでとことん質問をすべきです。もしその最中に指導者が曖昧な発言をしたり、矛盾した内容を言ったら、それについてもしっかりと質問し、納得がいかないことがあったら完全無視するくらいの姿勢で良いと思うのです。中途半端は一番良くないので。ただし、自分自身も真剣に考え、腰を据えて実践するようにして欲しいと思います。

ちょっと厳しい感じで書いてしまいましたが、とにかく、根拠を示せない指導者はダメだと思うんです。勢いや根性だけで解決していく時代はもう終わりました(僕自身にも喝をいれるつもりで言っています)。

まあ、指導者からの言葉はありがたく受け止めて(実践するとは限りませんよ)、「参考にする」「気に留めておく」程度でもいいかと思います。


この方からの質問は、実はまだ続いております。内容が全然違うので、二回に分けて掲載していきます。次回もどうぞおつきあい下さい。


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at 09:29, 荻原明(おぎわらあきら), 練習に対する考え方

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無駄なことをたくさんしよう 2








みなさんこんにちは!

前回から「無駄なことをたくさんしよう」というタイトルで書いています。今回は後編です。

無駄か無駄でないか、何が必要で何が必要でないかの線引きは人によって全然違うものであるとは思うのですが、ここでは、「幸せに暮らすためには、優秀な成績で優秀な学校を卒業して、一流の会社で働き、お金に困らない家庭を築くこと」を目指すために、それに必要でない行為を極力排除する、という考え方だと思って下さい。ですから、「ゲームなんてしている暇があったら勉強しなさい」という家庭の(親の)価値観のある環境と言ってもいいかもしれません。

僕は、と言えば、音楽を職業にしているところからしても、この真逆の環境で育ってきたと言えます。もう、本当に無駄なことばかりの子ども時代でした。ブロック遊び、公園遊び、ゲーム、野球、サッカー、その他ハマったものは数知れず。どれも本気でやってすぐ飽きるという繰り返しでしたが、今生きていく中で、音楽をしていく中で、それらが元になっていることの多さ、そしてイマジネーションの豊富さなどは、机に向かって問題集を解いているだけでは絶対に得られなかったものだと思います。だから後悔してません。むしろ禁止禁止と一切言わなかった親に感謝しています。

前回はこんな内容でした。で、この続き。



音楽を演奏する、作品を作り上げる過程で必要なことは何でしょうか。「楽譜を理論的に理解する力」でしょうか。「楽器から音を出す理論」でしょうか。もちろんこれらがあればあっただけ正確な楽譜の再現というレベルでは演奏をすることができます。でもきっとパソコンでプログラムして再現したほうがよっぽど正確でしょうね。その点で言えば初音ミクのほうが優秀です。絶対ミスしないし、限界がありませんからね。

ですから、音楽というのは、数学的な理論だけで作り上げられるようなものではありません。


《知らないことはわからない》
例えば、キャビアを食べたことがないとしましょう。高級食材、世界三大珍味とか言われているキャビアですが、それが美味しいものなのだ、と誰かに伝えようとした時、その味を知らずにどうやって伝えられるでしょうか。(ちなみにキャビアを食べたことはありますがあまり美味しいと思いませんでした(笑))

例えば、心の底から異性を好きになったことがない人がいたとします(恋愛に消極的な子が多いとよく報じられていますが、本当にそうなんですかね?)。そんな人がラブソングを聴いてそ理解できるでしょうか?実際の恋愛をしていなくても構わないのですが、恋愛に興味を持っていないとか、こうなりたいと妄想することすら興味が湧かないようなら、恋愛に関する様々なことを理解するのは難しいでしょう。
「海は広いな大きいな」と歌って、海を(写真などでも)見たこともが一切なければ想像することも困難でしょう。リアルな感情は込められません(それが良いとか悪いとか言っているわけではないですよ。現実、そうなりますよね?という意味です)。

また、これはよく耳にしますし、実際に見たこともありますが、小さな子どもに対して親御さんが「危ないからダメ!」と、事前にストップをかけていることがあります。確かに、そこでストップをかけなければ大事故に発展してしまう可能性がある場合は別です。でも、ただ芝生の上を走り回ろうとしているだけなのに「走っちゃダメ!」と言ったり、公園の遊具で遊ぼうとして「何かあったら危ない」と、遊ばせなかったりする行為はいかがなものでしょうか。
そのようにして育った子どもは「怪我」を知らないままです。「痛み」「危険性」という意識も希薄です。仮に、親御さんの危機管理()により無事にそのまま大人になってしまったらどうなるのでしょうか。
転んで膝を擦りむいて出血しただけで救急車を呼んでしまうのでしょうか。
(逆に、人がとても多いショッピングモールなどで自分の子どもが人にぶつかった時、「怪我したらどうするの!ダメでしょ!」と叱る人がいますが、それより前に「周りの人に迷惑をかけるからダメでしょ」のほうが先だろ、と思うのは私だけでしょうか。余談。)

ちょっと大げさかもしれませんが、これらすべて可能性はありますよね。
だって知らないものはわからないって、当たり前ですからね。


《音楽は無駄なことで作られる?》
これまで音楽を演奏したり聴いたりして、まだまだ知らない曲のほうがよっぽど多いのは否めませんが、それでも本当に沢山の作品に出会ってきました。

特に音大に入ってからは、ほとんどの時間、いわゆるクラシック音楽を学び、演奏をしているわけですが、ざっくり「クラシック」と言っても、様々な背景から作品は作られているのだな、と実感しました。

例えば、「痛み」に関してですが、大学一年の時は授業で合唱を取らなければならなかったのですが、授業の延長とは言え、プロオーケストラと共演できる機会があるんです。第九とか。で、タイミングよく他の作品でも参加させてもらえたのですが、その時の曲が宗教曲、「ミサ」と呼ばれるキリスト教の作品でした。

キリスト教に関する音楽作品は、本当に沢山ありますし、ある意味キリスト教が現在の音楽の発展の最大のきっかけになっていたということも事実です。

キリストやその周辺の者の生い立ちや生き方、起こったことなどを音楽にしていくのですが、キリストは十字架にかけられてしまうというのは良く知られた話ですよね。
音楽でそのシーンを書いている作品も多いのですが、それぞれの手に杭を打つ描写などがリアルに書かれていたりもします。また、そのシーンは当たり前ですがとても悲痛です。

自分の手に杭を打たれたことのある人はきっといないと思うのですが、その時の目を背けたくなるようなシーンを想像すること、痛みを感じる心などがあるのとないのではだいぶ違うと思います。

結局は、様々な経験が、様々な楽曲を演奏する上での想像力をかき立てる力になるということで、それらがなければ、どんなに正確にきちんと楽譜通りに演奏できていても、完成することは難しいと思うのです。机の上でお勉強をしているだけでは絶対に無理なんです。ここで言う「完成させるのは難しい」というのは「聴く人の心に届けられない」という意味です。音楽は聴く人がいて初めて成立するものですからね。


音楽はとても人間臭いもの。ただ「美しい音」「正しいピッチ」「縦の線が揃っている」だけでは成立することはできないのです。しかし、どうもそういった完成度の高さばかりを部活動などで強く求めている傾向にあることが気になってしかたないのです。
賛否両論あるとは思いますが、音楽はむしろ少しくらい荒くても感情を注ぎ込んだ演奏をする方がよっぽど大切で、そうでなければならないと思っています。


《さまようプロセス》
前回からの記事を書くきっかけになったのは、番組名は忘れましたが、石原良純さんが言っていた言葉がきっかけになっているのですが、タイミング良く、その後ビートたけしさんとミッツマングローブさんが違う番組で同じようなことを言っていたんです。

知らないこと、わからないことがあると、すぐにネットで検索して答えをダイレクトに求めてしまう人が多くなったといっていました。もちろん、現代の身近なツールとして存在しているので、そういった傾向になることは、ある意味しかたのないことかもしれません。しかし、そのせいで「考える」という時間がなくなってしまったことが気になると。それをミッツさんは「さまようプロセス」という表現をしていたのですが、ごもっともだと思いました。考えなくても正解をすぐに求められることは時間短縮で失敗のない行為なので、もちろん僕もネット検索は沢山使っていますが、反対に、考えたい時間も同じくらい欲しいと思っています。要するに何でもかんでも調べない、ということ。考えて(さまよって)いる時間ってとても大事で、そこから思いがけない発想が生まれたりもします。

そのダイレクトに答えを求めていくことの弊害のひとつが「失敗を経験できない」「他の選択肢を考えられない」ということです。
失敗を恐れてしまう人、失敗した時のショックが非常に大きい人が増えたように思います。しかし、失敗は成功のもとと言うくらい失敗することは悪いことではなく、何度もやってみて「あ、こういうことか」と自力で見つけられるようになることもとても大切なことだと思います。

これらは個人練習にも言えることでしょう。僕自身がこんなブログやましてやTwitterのbotなどを作って配信している身として矛盾しているかもしれませんが、奏法等に関して、ダイレクトに答えを求めてしまうのは、あまり賛成できません「あ、これはこうすると良いのか」とわかったような気がして、いざ実践しようとしたら上手くいかない、なんてこと山ほどあるはずです。取扱説明書の「こまった時は」のページでもなければ、数学の公式を書いているわけでもなく、あくまでも自分がいろいろな経験をしてきた結果、たどり着いたひとつの答えを、さらに文章化したものがブログやbotです。ですから、参考にはなると思うのですが、そのまま実践で使えるとは言い切れないのが正直なところです。
ぜひ失敗しながら自分に合った方法を見つけられるようにして下さい。その時の参考資料として僕が書いたものを使ってもらえたら嬉しいです。


《YouTubeという便利ツール》
聞いた話なのですが、どこぞの音大生の子が、仕事先で音楽業界では有名すぎるほど有名な作品を全く知らなかったんだそうです。あげく、知らないからきちんと演奏できなかったとのこと(仕事ですからねこれ!)。
知らないのはまあ、しょうがないとしても、もしそうだったら、事前に楽曲を聴いて、譜読みを完璧にしてどんな可能性でも対応できるようにしておくことが使命なはず。そもそも「知らないから演奏できない」状態を放置していて仕事現場に来るというのも凄いと思いましたが、その理由に驚愕しました。

「YouTubeになかったから」

だから演奏できない、知ることができなかったのだと。もはや言っている意味がわかりません。
方法なんていくらでもあるだろうに、それをしてこない。いや、もしかすると、他の方法を本当に知らないのかもしれません。これこそ「無駄を省いた弊害」ではないかと思うのです。

これで失敗をした音大生ではありますが、果たして本人は失敗したと受け止めているのでしょうか。そこも気になるところです。

今回は音楽の話からだいぶ範囲が広がってしまいましたが、思うところがありましたので書かせてもらいました。

次回からはまた内容を変えて書きますね。
それではまた来週!



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at 08:40, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

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無駄なことをたくさんしよう 1








みなさんこんにちは!

先日、テレビを見ていたら、石原良純さんが「最近の子どもは必要なこと優先で無駄なことをしない傾向にあるけれど、若いうちはどんどんしたほうがいい。無駄なことをして、その中から見つけられた様々なことが、とても大切だったり、将来まで残るものが沢山ある」と言っていました。

じゃあ僕が子どもだった頃、どんな過ごし方をしていたんだろう、と思い返してみると、まあ無駄なことばかりしていたんですよね。ここで言うところの必要なこと(良純さんは勉強のことを指していました)なんてほとんどしてなくて。
僕は子どもの頃、非常に好奇心旺盛で、何でも本気で(本格的に)とりかかるけれど、熱しやすく冷めやすいので途中でも急に飽き、気づけばまったく違うことに没頭している。なんてことを繰り返していました。


《無駄なこと》



いくつか挙げてみると、まずブロックで遊ぶことが好きでした。マンガのキャラを紙を重ねて模写したりもよくしていました。
藤子不二雄のマンガやアニメが大好きだったのでよく見てたし、その中で「プロゴルファー猿」というアニメを見た影響でゴルフにも興味を持ち、親戚から大人用のゴルフクラブを譲ってもらい、それを家の前でぶんぶん振り回してました。スポーツだったら野球も好きでしたね。
あとはファミコン。これは本当にハマりました。ほとんどすべてと言えるファミコンソフトで遊んだのではないかと思うのです。中でもドラクエは異常なほどにハマってました。
プラモデル作りも、幼稚園くらいから小学校卒業くらいまで相当熱中していました。ガンプラはもちろんですが、もっと小さい頃は「ロボダッチ」というシリーズが信じられないくらい好きでしかたなかったですね。なんであんなに好きだったのかわかりませんが、大人になって復刻版を買いまくってしまうくらい、今でも惹かれるものがあります。
変わったところでは、ワープロも熱中しました。今の若い人は知らないと思うんですが、ワープロというのはパソコンと同じようなキーボードと、小さめな液晶画面が付いて、直に用紙をセットして、入力した文字などを印刷することができる機器です。活字になることが楽しくて、必要がないのに、そこらじゅうにある日本語を入力しては印刷して遊んでいました。
キーボードと言えば、鍵盤です(やっと音楽出てきた)。本当に小さなおもちゃのキーボードを買ってもらって、ペラペラ音を出していましたが、そんなきちんと弾けるわけもなく(楽譜が読めませんでしたからね)、聴こえてきたメロディや知っているメロディを何となく鍵盤を押して並べてみる程度でしたが、楽しかったですね。出せる楽器の音も100個ちかくありましたし、和音が弾けなくても、ルート音だけ押せばハーモーニーも出せるし、リズムストックもあったので、それらを組み合わせると、単旋律しか弾かなくても勝手に曲になっちゃうんです。もしかするとこのキーボードのおかげでいろんな音楽に関する知識が増えたのかもしれません。
結局、細かいことやボタン(を押すと反応するもの)が生まれつき好きなのでした。

何の話だこのブログ、と思ってますよね。すいません。こんなに細かく書いたのにはワケがあるんです。石原良純さんが言っていた通り、これ全部、今の自分(音楽)に直結しているからなんです。

例えば、ゴルフですが、クラブを振ってボールに当てるまでの流れは、トランペットを吹く上での呼吸にそっくり。ボールの軌道に関しては、野球での経験も有効だったので、想像することが容易にできました。
ファミコンで経験したことは計り知れなくて、仮想世界でのイメージやキャラクターの動きやイメージは、今でもそのまま演奏に使われています。演奏中の頭の中は、結構な頻度でゲームをしている状態なんです。音の伸ばし方、飛ばし方は、もっぱらシューティングゲームのイメージだし、力を溜めて爆発的パワーを発揮する、なんてこともそう。これも演奏に反映されています。Bボタン長押し→Aボタンで大攻撃!とか。
また、これは以前にも書きましたが、ドラクエからの影響が、結局オーケストラ(クラシック音楽)への興味を持つきっかけでしたし、CDジャケットの付録の楽譜が、読めるきっかけになりました。ドラクエの楽譜を弾いてみたくてしかたなく、それで先程の小さなキーボードを買ってもらったんです。その当時、楽譜がどれほど役に立っていたかは不明です。結局当時は単旋律しか弾けなかったから。楽譜という存在のありがたみについても、この経験が影響しているかもしれません。
ワープロのキーボードが好きだったので、パソコンも結構早めに手に入れました(最初は親におねだりしたんでした)。パソコンが欲しかった理由はただひとつ。Finaleという楽譜浄書ソフトを使えるようになりたかったのです。これが楽しくて仕方なく、使いまくっているうちに編曲をしたり浄書をしたりする力を少しずつ身につけていくことができました。
何にせよ、飽きやすい性格が今はどのくらい治ったのかはわかりませんが、ひとつのことに一定時間集中する力というのは昔のブロック遊びやお絵描き、その他の様々なところから備わったと言えます。楽しいことをしていれば集中できる、という点ですよね。
そのかわり勉強は、、、全然でしたけどね。今も。


《無駄なことで生きている》
子どものころの支離滅裂に傾倒した様々な経験。結局はこれらのおかげで今の自分がいます。もしも親が「そんなことしているヒマがあったら勉強しなさい!」という人だったら、きっとトランペットどころか音楽にこれっぽっちも興味を持つことなく大人になっていたことでしょう。
もちろん、勉強をしていく過程で何かに興味を持ち、その何かの世界にドハマりしているかもしれませんが、はやり今の自分でよかったなと思っています。両親に感謝。


《イメージを持つ》
レッスンで生徒さんのイマジネーションに直接質問することがあります。「ここはどんなイメージ?」とか「どんなシーンだろうね?」とか。「ダイナミクス(強弱)」の話題になった時には、過去の記事「強弱記号」にも書きましたが、fやpを表現する時は、単なるオーディオのボリューム調整みたいにならないように、という意味を込めて「○○なf(p)」というイメージを必ず持つようにしましょう、と話します。

この「◯◯な」の中に思いつく限りのf(フォルテ)とp(ピアノ)を出してもらいます。岩石が落下してきたf、大泣きしているf。柔らかな綿毛のようなp、パチンコ球のp…。物体でも現象でも感情でも、f、pだと思うものを出してもらうのですが、破竹の勢いでイメージが放出する人もいれば、どんなに時間をかけてもひとつも出てこない人もいます。全く出てきそうにない時は、僕がひとつ出してしまうのですが、先日「とっても怒ってるf」というのを出した時に「怒ったことがないのでわからない」という言葉を聞いたときには驚きましたが、その温厚なところを少し分けて頂きたい。いや、でも怒ったことがないなんて、あるのかな。。。
生徒さんによって両極端な場合があることが、石原良純さんが言うところの「無駄なことを沢山してきた方」か、そうでなかったのが理由なのかな、と思ったりもします。それが確かかどうかはわからないので、聞きませんけどね。

ともかく、イメージするって、大事なんです。作品を演奏する上でも、その世界観が現実的ではないことも沢山あるし、作曲家がどんなイメージで作ったんだろう、どんな響きを求めてたんだろう、というのも想像力がないと説明できません。だから仮に「私は怒ったことがない」と言うのだとしても、音楽の世界では「怒り狂っている音楽(シーン)」というのは沢山あるわけで、その曲を演奏する時に、特に何の感情も持たず、「ポヤ〜ン」と演奏してはいけないと思うのです。怒りの感情を知らないならば、経験するか、演者になるしかありません。

レッスンの時も講師と生徒双方がイメージを持っていることがネックになります。
音楽を教えるというのは、教える側の持っているアバウトなイメージを日本語を駆使して伝える作業が必要になってきます。同じ表現をしても、このアバウトさが原因で受け取る側(生徒)によって捉え方だいぶ違います。そこを補完するために「講師が見本として演奏する」ことが必須となりますが、演奏だけでもやはりダメで、このバランスがとても難しところです。

これは同時に生徒さん側の、言葉の捉え方(受け取り方)をどのくらい柔軟にしておけるか、というのも大事で、「この先生は何を言いたいんだろう、どんなイメージを持っているのだろう」というところから、イメージを膨らませて、自分(生徒さん)の中にまったくなかった表現であっても、そのワードから自分なりに咀嚼して解釈(仮定でも良い)ができる人か、そうでないかが、この先のレベルアップの大きな分かれ道になると思います。


さて、今回は自分の恥ずかしい生い立ちと、リンク先の画像を見て「昭和感」沢山感じてもらったかと思います。
実はまだ全然言いたいことが書けていませんので、次回に続けたいと思います。

ぜひおつきあい下さい。

それでは、また来週!

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at 08:17, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

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お客さんになって自分の演奏を聴こう









《客席にいる時》




僕は高校生の時、コンサート通いにはまっていました。特に多かったのがN響の定期公演で、横浜から渋谷まで学校から直接行くなんてこともしょっちゅうだったのですが、もちろん、中学の時の友人が出るからと、お隣の高校吹奏楽部のコンサートや文化祭ステージなどもよく行ったのを覚えています。
みなさんはコンサートへ行きますか?コンサートと言っても様々なものがありますが、僕の高校時代のように友人や、そうでなくとも同世代の人の演奏する吹奏楽やオーケストラなどのステージを観に行くこと、きっとあると思います。

客席から演奏を聴いていると、きっといろいろなことを思うはずです。聴こえてくる音楽に想像が膨らみ、作品の世界へ連れていかれるようなことが自然に起こったら、それは幸せな時間でしょう。友人知人が素晴らしい演奏をして、思わず微笑んでしまったり、感動したり、関心したり、羨ましいと思ったり。ああ音楽ってやっぱり素晴らしい!って思って会場を後にできるこの感覚はライブで独特の醍醐味でしょう。
こういったタイプの方は、少々アラの目立つ演奏だった時にも「そうそう、そこは難しいよね、わかる」「バテちゃったか。しかたないよね、キツいんだもんこの曲」とか、共感してあげる感じかもしれません。

こういうタイプの方がいる一方、少々手厳しい批評家のような姿勢で聴く方もいらっしゃることでしょう。
「うーん、そのメロディはもっと歌えばいいのに」「音程悪いな!」といった感じ。
その方が元々そういったスタンスで聴く気がなくても、演奏がイマイチだとどうしてもアラが目立ってそこに目が(耳が)行ってしまうとか。そんなこと考えたくないのだけれど、感じてしまったとか。

タイプを二分するというのも難しいかもしれません。同じ人でもその演奏のクオリティによって感じ方が紙一重でしょうから。

ともかく、客席にいる時は頭や心が沢山刺激を受けていますね。演奏を聴いて寝てしまうというのも、ある意味刺激を受けているからではないかと思います(ただの睡眠不足の方もいらっしゃるでしょうけれど)。


《スポーツ観戦》
スポーツ観戦は好きですか?僕は何かの競技を実際に観に行くほどではないのですが、テレビで流れていればいろいろ観る程度には好きです。小学生の頃は父に連れられて横浜スタジアムまでプロ野球観戦によく行っていたものです。

僕はその頃、野球が大好きで、遊び程度ですが友達とよくやっていました。しかし、それほど上手ではなかったので、的確にバットにボールを当てることや、飛んで来たフライを確実にキャッチすることが誰でもできる容易なことではないのだ、と子供心に理解していたので、いくら大洋ホエールズ(あ、世代がバレた)が弱くても、共感できることがよくありました。もちろん勝って欲しかったですけどね(笑)だからグチやブーイングはしません。
でも、まわりのおじさんたちの中には、まあ良く言う人がいるんですよね。「なーにやってんだ!」とか「そんな球も打てないのか!」とか。お酒入っていたのかわかりませんけど、怖い。

それ以上に感じたのは「じゃあお前がやってみろよ」という気持ちでした。150km/hもある球が打てるの?と。

ただ、どんなスタンスで観戦していても、最低限モラルやマナーさえ守っていれば、お金を払っている以上、それは自由です。

当時の僕は「共感タイプ」でした。そしてグチだらけのおじさんは「批評家タイプ」でした。

しかし当時の僕は基本、共感タイプではありましたが、全部が全部そうではなくて、やっぱりプロだし、試合に勝って欲しいし、優勝して欲しいし、そんな気持ちはありますので、ガッカリさせて欲しくないという気持ちから、批評家タイプになる瞬間ももちろんありました。やはり紙一重なのでしょう。


《トランペットの事情をまったく知らないお客さん》
話を音楽に戻します。
このブログを読んで下さっている方のほとんどは演奏者であると思われます。演奏者としては、やはり理想は「そこにいるお客さん全員に楽しんで欲しい」があるはずです。しかし、多くの場合は前述のように批評家タイプの人が客席にいることが想像できます。
そしてもうひとつのパターンの方がいらっしゃいます。それは「トランペットのことをまったく知らない方」です。音楽が好きでも、特定の楽器の事情をまったく知らない、という方は結構多くいらっしゃいます。僕もすべての楽器に触れたり、演奏したことがあるわけではありません。吹奏楽やオケ、ジャズをやっていても、身近にない楽器のことって、その楽器の外観と名前くらいしか知らないということ、ありますよね。中学生の時は、ダブルリード楽器が部活に存在していなかったので、ファゴットとか、完全に未知の楽器でした。

「音楽(特に聴くこと)が好きで、でも、自分では演奏しない。」というタイプの方が、もしかすると悪気が無く一番厳しいことをおっしゃるかもしれません。例えば、

「なんでトランペットって音をよくはずすの?」
「なんで高い音が出ないの?出せばいいのに」
「ピッチ合わないね。なんで?」

どうしても我々はトランペットを経験している、もしくは身近にトランペット吹きがいるから「事情」を知っているので、なかなかこの発想に至ることができませんが、ピアノが鍵盤を叩いた時、ある音が1つ出なくなっていたら、それだけで「(直るまで)使えない」ときっと誰もが思うのと同じように、トランペットをまったく知らないのであれば「普通に楽譜通り吹けて当たり前(演奏する難しさがわからないから)」ですよね。

もちろん、トランペット奏者それぞれの経験年数やその時点での技術量によって、どのくらいのクオリティで演奏できるのかは違います。しかし問題はそこではなく、「トランペットは難しいんだぞ!」「音を外すのは仕方ないことなんだ!」とダダっ子のようにトランペット吹きにしかわからない言い訳をしながら(心の中に持ちながら)演奏や練習をしてしまうこと(無意識も含む)です。

例えばハイノートを出そうとした時「出れば何でも良い」といった気持ちで口周辺の力やプレス、体全体の無駄な力みで無理矢理苦しそうな細い音を出して、それを「出た!」と言ってしまって良いのか、ということです。その音が、トランペットを全く知らない人にとって、「なんでそんな苦しそうなの?」と思われてしまうかもしれません。そもそも(これが大事ですが)ハイノートなんて概念がありません。ピアノの鍵盤を叩くように、どんな音域でも出せると思っている方だっていらっしゃると思うんです。ですから、こういった発想にたどり着ければ、更にレベルの高いハイノートを目指して練習を続けることができるはずで、こういったところにも演奏レベルの差が出るのではないかと思います。

「当たり前」を「当たり前」と思わないこと。これが大切です。


《お客さんになって自分の演奏を聴く》
僕はレッスンで「自分の演奏を客観的に聴いてみましょう」と良く言います。生徒さんが自分の吹き方や表現について悩み始め、気持ちが内側内側に向いてしまった時(奏法や自分の事情のことばかりを考える状態)、には

「あなたが今、大きなコンサートホールでリサイタルをしていることを想像しましょう。そして、もうひとりの自分が今、客席でそれを楽しみに聴いています。」

こういったイメージをしてもらって、再度同じものを演奏してもらいます。すると、今まで内側に気持ちが向かっていた生徒さんが、途端に「外側」に発信する演奏をしようと意識するようになります。別に奏法を直したわけではないですし、僕は力を何も使っていません。それなのに、印象が全然違うものに一瞬で生まれ変わるんです。もちろん良い方に。

そしてその後、反省をします。

「今の演奏、客席の自分は満足だった?わざわざ時間を割いて、お金を払って来たお客さんとしては、満足だった?」「明日学校で友達に『昨日すごい良いコンサート聴いたんだよ!』って紹介できる?」

そんな質問をします。

こうしていくことで、練習の時にも良い緊張感が生まれます。特に個人練習の時は、つい「何度でもやり直せる」という妥協があるので、一発で決めなければいけない本番や合奏練習の時の足かせになることも多いのです(もちろん、技術的な克服を目指す反復練習も必要です)。

このブログで何度となく言っている「お客さんに聴いてもらうために演奏をしている」という考え方を忘れがちな時はぜひみなさんもこんなイメージをしてみて下さい。


ということで、今回は「ラッパのことをまったく知らない人の視点」を常にイメージして練習、演奏をしましょう、という内容でした。

それではまた来週!


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at 06:37, 荻原明(おぎわらあきら), 音楽に対する考え方

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