smtwtfs
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< August 2020 >>
profile
ogiwarasite.jpg















eventsmini.jpg

RappaVer2Bana_waku.jpg

academySMALL.jpg
recommend
トランペット ウォームアップ本 (MyISBN - デザインエッグ社)
トランペット ウォームアップ本 (MyISBN - デザインエッグ社) (JUGEMレビュー »)
荻原 明
【販売部数1000部達成!】「ラッパの吹き方」ブログ著者、荻原明 初の教則本!ウォームアップと奏法の基礎を身につけられる一冊です!
recommend
まるごとトランペットの本
まるごとトランペットの本 (JUGEMレビュー »)
荻原 明
「ラッパの吹き方」から生まれた「まるごとトランペットの本」発売中です!
プレスト音楽教室
プレスト音楽教室 当ブログ著者、荻原明が講師をしている音楽教室です。生徒さん随時受付中です!
ラッパの吹き方bot/Twitter
ラッパの吹き方bot 「ラッパの吹き方」ブログから抜粋した1400以上のことばと記事の紹介をしています。練習のお供に、ぜひご活用下さい!
ラッパの吹き方 Facebook
ラッパの吹き方フェイスブック ラッパの吹き方Facebookでは新着記事の紹介のほか、"note"でのハイノート本原稿公開の更新情報、これまでの記事を発掘して紹介をしております。
links
mobile
qrcode
 スマホ版表示に変更

※スマートフォンで閲覧している時のみ作動します
        
サイト内検索はこちら↓
new entries
categories




archives
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
<< 音楽的なチューニングをするために大切なこと9(音のツボが2つある?!) | main | 音楽的なチューニングをするために大切なこと11(揃える、とは 2) >>


音楽的なチューニングをするために大切なこと10(揃える、とは 1)


















みなさんこんにちは!

《「揃える」「揃っている」》

みなさんは「揃える」「揃っている」という言葉から、どんなイメージや印象を持ちますか?

こういったイメージでしょうか。



他には。。。



最初の動画はエナジードリンクのCMです。本当の人間がやっているのかと思っていたのですが、CGなんですね。
そして次の動画はサッカーの試合で観客のひとりひとりが色のついたボードのようなものを掲げて、ひとつの大きな字を作り出しています。

こういったものは「マスゲーム(集団運動)」と呼ばれますが、きっと体育祭で同じようなもの、やったことありますよね。


確かに、こういった集団でひとつの大きなものを作り上げる行為は「揃っている」と言えますね。


《スカパラ》

では、音楽に話題を戻しましょう。

吹奏楽やオーケストラなど、複数人で作品を作り上げる場合の「揃える」「揃っている」は、上記の動画のようなものを作り上げる意識で演奏すべきだと思いますか?

では、こちらの動画をご覧ください。



東京スカパラダイスオーケストラ。スカパラです。かっこいい!

スカパラの特徴は同じ楽器がひとつもないことです。そして、ステージを縦横無尽に動き回り、それぞれの奏者の個性がとても光っているのが魅力のひとつでしょう。

彼らは衣装さえ同じではありますが、パフォーマンスを見る限り、同じ動きをしているわけでもないし、言ってしまえば「バラバラ」です。

しかし、そのバラバラ状態がかえってひとつのおおきな「個性」となり、スカパラにしかできない「統一感」を生み出しています。


要するにこういうことです。

「個性を主張している」
「みんなの気持ちは同じ方向」



《音楽は個性で成立する》
それでは、再度確認しますが、音楽においての「揃える」ための考え方で、よりふさわしいのは、マスゲームとスカパラ、どちらでしょうか。


後者ですね。


マスゲームにおいては「個」の主張は必要ありません。大勢でひとつのものを生み出すためのそれぞれ個人は、単なるコマ(部品)にすぎず、むしろ個性を主張することは、マスゲームのクオリティを下げてしまいます。

しかし、吹奏楽やオーケストラでは、それぞれの奏者は、担当している楽器もパートもすべて違い、作品や場面によって主役が変わったり、担当が変わったりと全員が「個性」を発揮することでそのつど成立しているわけです。
それなのに、個性を消してひとつの作品を作るなどというマスゲーム的思考で演奏をすると、途中で必ず行き詰まってしまうのです。


《学校における吹奏楽の違和感》
日本の教育は未だに個性を尊重していないように感じます。それよりも決まり(規律)を守り、全員が先生の授業を静かに聞いて、質問されたことに模範解答を求められ、それ以外は評価されない。そんな状態が今の時代でもまだまだ続いています。

1079e30881dfd7d9d5a8669e0ad4585f_s.jpg

もちろん、場面によっては全員が理路整然と行動することが素晴らしい結果を生み出すことも多々ありますから、全てを否定するわけではありません。しかし、規則や規律で成り立っている学校という空間で、その切り替えをするのはとても難しく、どうしても演奏者は学校にいる間は奏者=生徒であり、「教わる人」という立ち位置になってしまいます。

一方、学校で音楽を教える人、指揮者や指導者は=先生であり「教える人」という力を強く持っています。

確かに音楽は指揮者によるイメージの統一が必要な場面が多々ありますが、問題なのは奏者=生徒=『受け身』になってしまうことなのです。


先生が何か教えてくれる。
先生に認められる演奏をする。
先生に怒られないようにする。


そういった思考が個性を消し、何か言われるまで自分からは一切動かない状態になってしまうのです。

これでは、本当の意味で音楽を作り上げることはできません。


日本の学校吹奏楽の演奏、中でも完成度の高い演奏(=コンクール評価の高い演奏)をするところほど何だか異質なものに感じませんか?
とても上手なのだけれど、プロの演奏とも違うし、でも悪いわけではない、しかし他の音楽とは違うフィールドにいるような、不思議な感覚になります。

それはきっと、「マスゲーム的演奏」だからだと僕は思っています。

ひとりの力を持った指導者がすべての奏者を統率させ高い完成度の音楽を生み出す。
本来ならば音楽としては矛盾した環境なので、絶対に限界を感じてしまう奏者が出てきてしまうので、この状況で完成度の高い音楽を生み出すことはありえないのですが、学校教育の中ではそれを押さえつけてしまう不思議な力が働き、全員が指導者のコマになって、非常にクオリティの高い演奏をしているのでしょう。

吹奏楽部で楽器を始めた人が、卒業してから一切楽器に触れなくなってしまう人が多いのも、こういった環境から無意識に嫌悪感を持ってしまう人が中にはいるからだと僕は思います。こんなに不自由で神経質なものなのか!と疲れ切ってしまうのです。

もちろん、すべての学校、すべての部員(奏者)がそうではありません。しかし、確かにそういった方向性で音楽を作り上げているところは数多く存在しています。


どんなにクオリティが高くともそれがマスゲーム的な演奏なのであれば、だったらちょっとくらいアンサンブルが乱れていても個性を発揮し、その中で仲間を信頼し、尊重し、作品に対して真摯に向き合うスカパラ的演奏のほうがずっとずっと魅力的だと僕は感じます。でもそれではコンクールで金賞はもらえないでしょうけれどね。皆さんはどう思われますか?

ということで今回は「揃う」「揃える」について書きました。

また来週!



当ブログの写真・記事等の(全部、一部問わず)無断利用、ネット上(TwitterやFacebookなどのSNSを含む)などへの無断転載を禁止します。

at 06:03, 荻原明(おぎわらあきら), ピッチと音程

-, -, pookmark